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たくさんのお年寄りに接することで、どうしても自分の老後を考える機会が多くなります。心配なのは、足腰が立たなくなることと自分も認知症になる可能性があることです。足腰は必至ですが、認知症はそのときが来ないと分かりませんね。
理性とともに体裁や見栄があって取り繕っている”自我”も、箍(たが)が外れて暴走したら怖いです。丸裸の自分っていったいどういう人格なのでしょうか?
どういう人が認知症になり、どういう人がならないのか、いつもいつも考えている自分が居ます。
お年寄りと接していて必ず耳にするのは、
「昔は、何でもできたのに・・・。」
「役に立たなくなったので生きていても意味がない」という言葉です。
”何でもできた”お話には、思い出話を一緒に紐解き、いくらでもお付き合いすることができますが、”生きていても意味がない”と言われると返事に窮してしまいます。若輩者には、慰める言葉が見つかりません。
話の成り行きで、後述の「最上のわざ」をお見せすることもあります。でも出し方次第ではお年寄りを傷つけてしまうかもしれませんので慎重にならざるを得ません。
「最上のわざ」は、私にとってこれからの道しるべのような詩です。
何もできなくなってしまったときのために、すべてのことに感謝できる自分を創り上げていく努力をしたいと思いますが、徳を積み重ねるのは至難の業ですね。・・・メッキばかり貼り付けていたりして。
介護の仕事をさせていただきながら、一番勉強(訓練?)になるのは、どれだけその方の心の世界と同調することができるか、です。認知症の世界から覗いた世間、です。”我”の強い自分が、我を捨てなければ通用しない世界だといつも戒められています。
ここに使わせていただいた画像は、とても穏やかで愛すべき親戚のおばあちゃんです。この方の介護にまつわるお話は、また別の機会でお話したいです。 | |
最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ。」と。
「年をとるすべ」より
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