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濱岡家の火事と結いの心2010-04-08
 前回、濱岡家の引越しのことを書きましたが、未だ彼らの思い出に浸っているうちに、ずっと書きたいと思っていました彼らの家の火災での出来事を記したいと思います。
 その家は、私が今の家に住む前に2ヶ月間仮住まいをさせていただいていた家でもありました。


 忘れもしない4年前の1月15日未明(3:30過ぎ)、宵っ張りの私は、まだパソコンの前に座っていました。屋外がやけに騒がしいので外に出ると、「濱岡さんところが火事よ!!」と血相を変えた近所の方が走り去って行きました。家の前の狭い道は、たくさんの人が濱岡家の方へ流れていました。


 現場に行くと、火炎を上げて家が燃え盛っていました。そのときの怖さは、今でも忘れることができません。身体が震えました。消防署と地元の消防団の方たちの必死の消火活動が行われていました。近所の方たちも全員が集まり、呆然として遠巻きに見守っていました。


 とても寒い夜でした。濱岡家のみんなは裸足、パジャマ姿で飛び出していましたが、傷を負った人もなく全員が無事でした。よくも一酸化炭素中毒にならなかったと、何度思い出しても胸を撫で下ろします。
 出火原因は、薪ストーブの煙突の過熱でした。


 ごった返している最中、いつしか子供たちの足には靴が履かせられ、ジャンバーが着せられ、同じ末永に住む子供の友達のお母さんが、子供たちを寝せるために家に連れて帰られました。


 濱岡家の向かいが、私たち“上組“の集会所になっているのですが、火事発生から2時間も経たないうちに、その集会所で地元の消防団の方たちのための炊き出しが始まりました。(ご飯と、味噌汁、漬物)朝ごはんだけでなく、お昼ご飯も用意されました。


 あまりにも手際よく手馴れた様子でしたので驚き、後で訊ねました。
「末永って、以前にも火事があって、それで炊き出しも慣れているのですか?」と。「いやあ、そんなことないよ!」と反対にびっくりしたような返事が返ってきましたが、日頃から仲の良いチームプレー振りが発揮されたのだというのは後になって分かりました。ここでは、いつも誰かが指示するということもなく、さも当たり前のことのように助け合いが始まるのです。私にとっては、不思議な国のようです。


 「あなたがここに来る少し前、認知症だったおばあさんが行方不明になって、それこそ全員が仕事を休んで捜し回った事があったとよ。そりゃあ大変だった!3日間探し回ったとよ。全員でよ!そのときは、前原市の消防団も、志摩町からも二丈からも町が応援に来てくれ、それぞれの地元の消防団も来てくれてね。まあ、山の中で亡くなっているのが発見されたんだけど、その時に、私たちは、毎日毎日その人たちのために炊き出しをしたとよ。もう、みんなクタクタだった。そのとき、お父さん(ご主人)が行政区の区長をしてたもんだからなお更大変だったんだけど・・・。」


 そのチームプレー振りが一層発揮され、私は、驚きと感動を目の当りにしました。炊き出しが終わっても誰も引き上げようとされず、”上組”の方たちは、この日、焼け跡の手伝いのため全員が仕事を休まれました。すごいと思いませんか?全員ですよ!(お年寄り以外の方は、みなさんほとんど仕事を持たれています。)


 消火活動が終わった直後、救援物資が続々と到着し始めました。洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、毛布、布団、衣類、靴、台所用品、鍋、食器・・・仮住まいに当てられた30畳ほどの集会所は、その日のうちに身の置き場がないくらい一杯になりました。野菜、米、調味料、電気ポット、歯ブラシ、ヘアーブラシ、髪留め、ノート、鉛筆、何とブラジャーまで、きめの細かい不足なしの救援物資の数々でした。(それとは裏腹に思いました。こんなにもたくさんの余分の品が、それぞれの家庭に存在していたことを。いえ、わざわざ新規に購入されたものも多かったのですが。)
 質素で慎ましやかで堅実な生活をしていた濱岡家でしたから(決して貧しいのとは違います。)、それらの救援物資のために、今までよりもずっとリッチな生活になったのには、ハーちゃんと笑ってしまいました。衣類も、かなり上等なものばかりでしたし、電気製品も彼らが使っていたものより新しいものでした。
「ハーちゃん、なんか、今までよりずっとおしゃれになったんじゃない!?」


 火事の後始末のお手伝いに来られた方たちは、末永の方たちばかりではなく、先日のお引越しのときのように、スポーツのお仲間、子ども会のお仲間、子供たちのお父さん、お母さんも大勢でした。“野の花”のお客さまも噂を聴きつけて来てくださいました。お手伝いの方たちの作業は数日間続きました。


 ある方たちは、煤と水で汚れたアルバムを見つけ、写真を外しては、洗ってドライヤーで一枚ずつ丁寧に乾かされていました。ある方たちは、やはり煤で真っ黒くなった鍋や食器を地面の砂で磨かれていました。焼け跡から、荷物を運び出す作業は、主に男性の方たちでした。使えそうなものとそうでないものを分ける作業は女性の仕事。みなさんが自分の仕事を見つけて熱心に働かれていました。


 そんな中、敷地内に住む大家さんの泰則さんご夫婦は、笑顔で、「お疲れさま!」と声をかけながら缶コーヒーやシュークリームを配って回られていました。
 ハーちゃんと私は、何年経ってもそのことを話したものです。
「信じられないねえ!何のお咎めもなしによ!、普通だったら、出て行け!弁償しろ!って言われて当然よねえ!」と。更に、ハーちゃんは付け加えました。
「まだ家が燃えている最中によ、泰則さんは、『心配せんでいいよ。あの納屋を改造して住んだら良いたい!』って言われたとよ〜!」
「火事の後、私たちはお詫びに、100万円包んで持って行ったとよ。でも、絶対受け取られなかったもんね!そしてね、『どうぞどこにも行かないでここに住んでください。』とまで言ってくれたとよ!」


 集会所に一週間住まった後、これまたご近所の方がご好意で、借家を提供してくださりそこで仮住まいをしていました。建坪が70坪もあるような豪邸でした。私がよくお野菜をいただいているお家です。そのお家は、道路拡張に伴い玄関部分が削り取られることになったため、近くの農地に新築し直されて丁度空き家になったばかりのときでした。


 そんな仮住まいを始めながら、納屋のリフォーム工事が始まりました。いくつかに仕切られたその納屋は、2階建てで農機具置き場になっていましたが、昔は家畜も飼われていたようで、けっこうな大きさでした。白壁の蔵も隣接していました。
 シーちゃん(火事元の主人)が大工だったこともありましたが、“上組“には、大工さんが数人居られ、その方たちが総出でかかって、わずか1週間の突貫工事で仕上がりました。


 みなさんにご迷惑をかけたことを気遣う彼らが、会う人ごとにお詫びとお礼を述べる中で、近所の方たちは、笑顔で、「心配せんでよか!みんな無事で良かったねえ!」と口々に言ってくださいました。
「農業用水が整備されていて良かった。これで、防火用水にも役立つことが立証された!」とも。
 彼らの住んでいたすぐ裏に、大きな農業用水の池があります。その池から、私の家の横の防火用水までつながっています。十分な水が供給されたことは、今後のためにみなさんが安心されたことも事実だったのでしょう。
 みなさんの協力振りに感動している私に、こんなことも教えてくださいました。
「村八分って知っとるね?」
「え?」
「村の人は、昔から助け合って生きてきてるとよ。それでも、どうしても付き合えない人が居るとするやろ?そんな人とはみんな、日頃は付き合わんけど、火事と葬式の2つだけは例外で協力するってことたい!」
・ ・・もちろん、濱岡家は村八分とは程遠いですが、火事だから当然と意味で言ってくださったのでしょう。
 ちなみに、他の付き合いとは、冠・婚・建築・病気・水害・旅行・出産・年忌の8つということです。


 お葬式のときも、ほとんどはみなさんの自宅からお送りしますから、お通夜から御斎(おとき)の用意までみなさんの協力によって成り立っています。いついかなるときも、指図する方は居られません。仕切る人も居られません。しかし、何の行事のときも滞ることはありません。まとまらない話はありません。いつも仲良くニコニコと、それでいて手早く作業が進みます。


 昔々、高校時代の先生がおっしゃっていた言葉があります。「文化は田舎でこそ生まれるものだ。日本文化の起源は、田舎にあるんだ!」と。長い間その意味が分かりませんでしたが、田舎暮らしをしているとその意味がよく分かります。


 自然とともに暮らしてこられた方たちは代々、大地から知恵を賜り、物を作り出す術を体得し、伝承と結いの心を大切に守りながら、非農家の人々に食の提供をしてこられたのですよね。災害のときに何をすべきか、人が困ったときは何を為すべきか、気象を読み、植物と会話をしながら生活をしてこられたのですよね。大自然を相手に、みなさんが一致団結して乗り越えてこられたのです。田舎の生活は、地味で華やかさこそありませんが、人々が本領を発揮されるのは、アクシデントのときなのです。


 日本人の言葉使いが曖昧だとか、発言が消極的だったりするのも、元は結いの心から発生したものなのだなあと一人で納得しています。今の私には、これも日本の美のように思えます。


 怖かった火災を振り返りながら、改めて末永の人々の温かさ、偉大さを思い起こしています。
コメント
素晴らしい!! 現在もこういう話があるんですね〜
その場の状況目に見えるようで、感動しました。

78歳の友人が、いい意味でのおせっかいおばさんで、隣近所と長屋てきなつきあいしてますが、そんな人も少なくなり、まして近所上げて面倒みてあげるって、、、いいお話ありがとう 
自分 他人の区別がなくなり、村の人、町の人、日本の人、地球人 果てしなく結局一つとおもいたいですね。
(そら 2010-04-08)
いつもわくわく、どきどきしながら読ませていただいてます。「結いの心」感動です。
末永が本当に手入れが行き届いて美しい村なのが、解る様な気がしてます。「お百姓さん」こそ原点ですね。ガーデニングをする時にしか土に触れることはありませんが、こんな私でも、土が愛しく、いつまでも触っていたくなります。太陽とか風とか緑とか、体も心もふんわりと包んでくれるような気がしています。私たちが忘れてしまいそうな自然と共に生きる生活は、心まで豊かにしてくれていたのかしらね?
皆が幸せになれますように。いいお話いつもありがとう。元気も頂いています。
(うさこ 2010-04-08)
 すみませ〜ん、お返事遅くなりました。

 そらさん、そうなんです、今でもこんなところがあるんですよ!近所の方たち、み〜んなが幼馴染なんです。良い意味でみんながガキのままなんです。
だから、とっても仲がいいです。

 おっせかいおばさんとか、長屋的お付き合いとか、下町風情とか、そんな方がたくさん居ていただきたいですね。というより、私たちも、心して長閑で陽だまりのような年寄りの存在を継承していきたいですね。

 うさこさん、そうそうほんとに手入れが行き届いているのですよ。どこのお宅も、お庭も草を生やしっ放しってのもないのです。お庭だけではありません、今日も、裏のお宅の節子さんは、自分の敷地でもないのに、「人が通れなくなるから。」と、山寄りの農道を一人で、電動草刈鎌を背負ってピカピカにされていました。たまたま行き合わせて、胸が一杯になりました。偉いです!
 他人への思いやりが、地域や人々を育て、温かさが循環しています。そんな姿を見て、日々学ぶことばかりです。
 
(“野の花” 2010-04-11)
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