母が逝ったのは、暑い暑い夏の日でした。49年前の今日、母の38歳の誕生日でした。昭和36年、熊本の水道町にあった木造の旧い日赤病院の2F、淡いミストグリーンの扇風機が暑さを和らげるでもなく無意味に回っていました。
「ジャブジャブ洗って!お湯を流して身体を洗ってぇ・・・・。」
熱気のこもる病室の風景とともに蘇る私の記憶の中の希少な母の声。
亡くなる前の数日間?、「意識不明」だと周りが話していても、死というものの意味さえ分からず,何の危機感も持たず、毎日水前寺にある祖父の家からお見舞いに通ってのんびり過ごしていた夏休み。
母を連れて帰る車の中で、何度も後ろを振り返り、横たわっている母がほんとうに死んでしまったことを確かめました。10回も20回も。こみ上げてくる悲しさとともに、目の前に鉄の分厚い壁のような“絶対不可能”が立ち塞がっているのを感じました。どんなに泣いても、どんなに叫んでも、母親だったのにわが子の声にすら返事をしてくれません。絶対に二度と声を聞くことはできない、絶対にもう動かない、絶対に永遠に会うことができない、死という“絶対不可能“を初めて味わった10歳の夏でした。 |
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通夜で人々がごった返している家を抜け出し、埃っぽいでこぼこ道に面した門の前で泣いていると、通りがかったおばさんたちが、「どぎゃんしたと?お母さんから怒られたね。」「おばちゃんが一緒に行って謝ってあげようか?」と次々に声をかけてくれました。私は黙って首を振るだけ。このときばかりは、叱られて家を追い出されている境地だったらどんなにか幸せだろうと思いました。
空には、輪っかをつけた丸いおぼろ月が出ていました。心配して探しに来てくれた叔父は、ずっと月を見て泣き止まない私を、「逆さの月を見るか?」と逆さに抱きかかえ「どうね?」と言いました。その当時、大学を卒業したばかりの若い叔父でしたが、気を紛らわすために何かしてやりたかったのでしょう。
「人は生き返ることがある」という可能性に望みをかけて、通夜の席で動き出すかもしれない母をじっと見張っていましたが睡魔には勝てず、夜は、母屋から持ち出したものらしい、離れの縁側に無造作に積み重ねてあった木綿の布団の谷間にもたれかかって兄と眠りに落ちました。
誰が泣いていたかなど全く覚えていません。お葬式のことも記憶にありません。鮮明に覚えているのは、火葬場の低く狭い炉にゴロゴロと入れられた母の姿、冷たく閉まる鉄の扉の音、点火のスイッチの音、酸味を帯びた骨の焼けるにおい、止めどなく舞い降りてくる着物の灰。
母は、私を出産したときは既に結核でした。母の父は内科の医者でしたが、娘時代の結核の再発だったためか救うことができませんでした。ストマイという薬の名前を小さな頃から知っていました。ストマイというのはストレプトマイシンという結核の特効薬でした。その副作用から母は難聴になり、耳垂れがいつも枕を汚していました。 |
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私は、広い家で母から離され、大半を祖母と曾祖母に育てられました。昼間は、近所に住む叔母の家にもらい乳に連れて行かれ、夜は砂糖湯や重湯を飲まされていたそうです。虚弱体質で夜泣きがひどかったので母から離されていたのでしょう。当時は私も結核予備軍でした。お腹が空いて泣く子をどうしようもなかったと曾祖母が何度も話してくれたのを思い出します。
物心ついたころ、布団の中で曾祖母がしゃがれ声で絵本を読んでくれていたのを覚えています。「金太郎」や「桃太郎」の類の本でした。子供心にも、読まないよりはまだまし、という上手とはいえない読み方でした。夜中に目を覚ますと、枕元のラジオからは浪花節や浪曲、講談が流れていました。
小学一年生の夏休みの途中、父が筑豊の飯塚に転勤になり、私たちは、祖母を連れて引っ越をしました。母の面倒は、熊本で曾祖母が看ることになりました。
季節ごとに私たちの服が送られてきました。ほとんどが母の手作りで、ワンピースやスカート、ネグリジェ、パンツやスリップもありました。夏休み、春休み、冬休みの終業式が終わると、私と兄は汽車に乗って休暇中ずっと、母の待つ曾祖母の家に帰りました。時々、母がやって来ることもありました。
兄もまだ小学校四年生(9歳)でしたので、ホームまで送って来た父が、汽車の座席の隣の人に、「子供たちだけで熊本まで行きます。途中原田で乗り換えます。よろしくお願いします。」といつも頭を下げていました。 |
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母が亡くなったのは、父の勤務が飯塚から水俣へ変わった年でした。母が病院に入院していたのは、亡くなる前のほんの数ヶ月だったように思います。その入院する少し前、多分春だったと思います、母は、私たちの家に来ていました。到着した日、学校から戻った私を、玄関の畳の部屋にゴソゴソと這って出迎え、おどけた笑顔で「おかえり!」と言いました。しかし、大抵は寝ていて母の喉は、いつもゼーゼーと苦しそうに喘いでいました。
そのころ、私は母の膝に抱かれながら大泣きしていたシーンを思い出します。何を話したかは覚えていませんが、今にして思えば、母は私に、別れを言ったのでしょう。
運動音痴の私と違って、バレーボールが得意でした。結構ひょうきんでした。働き者で、頑張り屋の努力家でした。涙もろかったです。母も5歳で母親と死に別れ、いろんな苦労があったようですので、表情にはいつも哀愁が漂っていたように思います。
料理は、上手ではありませんでした。私は、幼少の頃から食べ物に興味があって、4歳ころ?からの料理の味をたくさん覚えています。夜中に曾祖母が作ってくれた味噌をつけた麦ご飯のおにぎりの味も、ご飯の硬さ加減も、麦味噌だったことも。
5歳のころ、水餃子と称したものを作ってくれたこともありましたが、ゴワゴワの分厚い皮に包まれたみじん切りの人参、椎茸、玉ねぎ、ひき肉。にんにくの風味はしませんでした。「初めて水餃子を作ったよ。」と得意そうに言った母でしたが、あれはどう考えても、野菜あんを巻いただんご汁でした。小学校のころ、コロコロとしたピーマンの肉詰めを作ってくれたこともありましたが、どうにも不味くて、母が席を外した隙に屋根の上に投げ捨てたことがありました。食べ物の好き嫌いはほとんどなかったので、それほど不味かったのだと思います。祖母たちの料理はシンプルでしたが美味しかったです。 |
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水俣で暮らしたころ、耳の遠かった祖母と、団体交渉で帰りの遅かった父、口数の少なかった兄との4人家族で、私はいつも寂しさと悲しさをいっぱい抱えていました。裸電球の下の祖母と3人の夕食の侘しかったこと。夜は、時々祖母の布団で皺々のおっぱいをしゃぶりながら寝ていました。(辛かったのは、もちろん私だけではなかったのでしたが・・・。)
母が亡くなってから、私は2年間泣き続けました。泣き出すとずっと止まらず、2時間も3時間も大声で泣いていました。転んでも、ぶっつけても、兄にからかわれても、きっかけは何からでも引き起こされました。風が吹いても泣きました。近所の子供たちは、私のことを“2時間泣き”と呼びました。ヒステリックになっていた私は、いつも兄に掴みかかって喧嘩をしました。おとなしい祖母は、ただおろおろするばかりで困り果てていました。そして、祖母からすると、悪者はいつも兄のほうでした。祖母が作ってくれる弁当のおかずが気に入らない、布製のお道具袋が年寄りじみた柄で可愛くないとダダをこね、手のつけられない我儘が加速していきました。当時、動物好きな私のために飼ってくれていたねこのゴロウと犬のジョンが、いつも私の涙の相手をしてくれていました。
じっと沈黙に耐えた兄の孤独な悲しみを、この歳になってやっと分かるようになりました。兄は、私に一度も愚痴を言ったことはありません。そして、私は、未だに兄に謝っていません。
大切に育ててくれた曾祖母も祖母も、母の結核がうつり、曾祖母は私が高校生のとき、祖母は成人したばかりのころ亡くなりました。ふたりの祖母に、“ごめんなさい”と“ありがとう”を言えませんでした。今、介護の仕事をしながら、ふたりの祖母に償っています。
母を亡くした悲しみは、娘を出産するまで癒えませんでした。でも、いつのころからか、母が死を持って教えてくれた意味をずっと探し続けました。深い悲しみを経験させてくれたことは、私の心のひとつの財産になりました。少しは人の痛みや悲しみが理解できるようになりました。子供たちのために、孫の面倒を看るまでは自分は絶対死なないでいようと命を大切にするようになりました。
母がしてくれたように、自分の子供たちの小さかったころは不器用な手で服を作り、おやつを作りました。そして、今はいつも故郷からの荷物を送っています。
お母ちゃん、今だったら、私、ベッドに寝ていてもお湯を流して髪を洗ってあげられるよ。
身体だって、お湯を流してあげられるよ。いつだって上等のサラサラの肌にしてあげられるんだから。
それに、お母ちゃんよりずっと美味しいもの作れるようになったよ。
食欲がなくても、きっと喉に通るものを考えてあげられるから。
足がだるかったら、一晩中でもさすってあげられるよ。
髪も撫でてあげるよ。
眠れない夜は、枕元で昔のお話を静かに読んでもあげられるよ。
黙って手を握っていてもいいよ、お母ちゃんが眠るまで。
今だったら、世界中でいちばん飛び切り上等な介護をしてあげられるのにね、私。
7月にささやかな50回忌を済ませました。
原爆や戦争や、そのほかの壮絶で悲惨な苦しみ、家族の死に遭われている人々が世界中に大勢おられるなか、ごく普通の悲しみだったんだなあと今は冷静に思います。
その後父は、人の勧めで私たちを連れて3度の見合いをしました。そして、翌年のクリスマスには新しい母がやってきました。祖母の負担軽減と、父の長い独身生活へのピリオドと、年頃になってきた私たちの面倒を看てくれるために。家の雰囲気は、セピア色からカラーへと画期的に変わっていきました。
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