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43年ぶりの水俣2006-12-22
 鹿児島の湧水に行ったついでに、友人から水俣に連れて行ってもらいました。
 水俣は、私が小学校の後半の3年間を過ごした場所で、めちゃくちゃに一心不乱に遊びまわった場所でした。小学校のすぐ横を、この水俣川が流れていました。
 いつの頃からか私の夢の中に、橋の上に立って川の流れを見ている自分の姿がよく出てきました。なぜかいつも同じ夢でした。そしてある日、それが水俣川にかかる、小学校の横のあの橋だったことに気が付きました。それからというもの、子供の頃以来、一度も行ったことのない水俣に行ってみたいと強く願うようになりました。
 あれから何年経ったのでしょうか、それがやっと今回実現しました。
まず、昔住んでいた家を探しました。何度か巡っているうちに、昔ながらの古い道が見つかりたどって行くと、住んでいた家は建て変わっていましたが、大きな樅の木は残っていました。
 いつも残業で夜中に帰って来ていた父、自分の死期を知っていて、私を膝に抱き上げ泣いていた母の姿、母の代わりに私たち兄妹の面倒を見てくれた耳の遠かった祖母、悲しさを懸命に隠し通していた兄の眼・・・、そして、お人よし過ぎた犬のジョン、私からいつもクチャクチャニされ続けたネコのゴロウ・・・、そんな思い出が、たくさんたくさん詰まった場所でした。
 毎日遊んでいた、大きな楠がシンボルの神社、”せいしょこさん”もありました。夏休みのラジオ体操もここでありましたし遊びの拠点でした。”せいしょうこうさん”とは言いませんでした。その名前が、加藤清正公を祭った神社だということを知ったのはずっとあとからだった様な気がします。 
 家並みは変わっていましたが、あちこちにほんの少しずつの名残りを留めていました。ここでこんなことをした、あそこではこんなことをした・・・と映像が湧き上がってきて、その当時の友だちの声さえ聴こえてきそうな気がしました。
 当時、チッソ紛争がすごくて、通学路の脇の空き地に労働組合が昼夜座り込んでいました。
「魚は食べたらいかん!」が子供心にも浸透していましたが、クラスの仲間の数人は、お父さんがチッソの社員でした。
 友人が、待っていてくれているのも忘れて、小学校の構内をゆっくりゆっくり、隅々まで歩き回りました。裏山は、”秋葉山(あきばさん)”と言うんだった!ここに昔、先生の官舎があった!ここに私たちは、花壇を作っていた!日ごろ忘れていた仲間の名前までが自然に浮かんできました。
 変わっていて驚いたのは、校庭のごみの分別場所でした。「おちば、はっぱ、くさ、はな」と「木の枝、竹の枝、ぼうぎれ」と分別を促す立て札が立っていて、集められた落ち葉などが立派な堆肥になっていました。
 そういえば、水俣市は環境ISOの認定を受けていて、地域、学校でもその取り組みが盛んだと言うのをNHKラジオで聞いたことがありました。
http://www2.higo.ed.jp/es/mina1es/iso.html(水俣第一小学校の学校版環境ISO)
水俣市は資源ゴミを23種類にも分けているのだそうです。すごいですね!

これが、水俣病からの遺産だとしたら、せつなく悲しい複雑な気もします。
 校庭掃除から出た有機物の堆肥の苗床で、春の花々の苗が元気にしっかり育っていました。その土の上等なことといったら!真っ黒でした。
そして、その苗床の多いこと多いこと!まるで花屋さんへの出荷待ちといった感じです。ご指導の先生のご苦労や楽しさがしみじみと伝わってくるようでした。(この画像は、ほんの一部です。)
 もう夕方でしたから放課後になっていたのですが、帰り際の子供たちの目がとてもきれいで輝いていました。素直で素朴な子供の目でした。
ここには、いじめなんか存在しないような、自由でのびのびとした大らかな空気が流れていました。校舎も校庭もピカピカでしたよ!
「おばちゃんな、うれしかったよ〜、みんな良か子だったぁ!」
 ・・・・・これで、やっと私もあの夢から卒業できそうな気がしました。
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