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祖母の遺書 Part22014-08-24
 次の文章は、祖母が、離れて暮らす軍医だった夫に宛てた手紙です。
祖父も、一時期結核だったようです。

ご入院なさいましたか、お淋しいでせう
なるべくあせらないで心を快活にお持ち遊ばせ
うちの庭には又一しきり紅筆草が美しく咲いています           紅筆草⇒
つばめ草もまだ仲々きれいですし つやつやしたザクロに雨が一ぱいかかって枝が重くたわんでゐます その下に花菖蒲が紫も色濃く咲いてゐます 葵も大分高く咲きました おなすが美しく朝つゆにぬれてゐます 目をつむって眺めてごらんなさいませ 筍ののびたのも明るい感じと見えます お大事になさいませ

 夫への別れの文章も残っていました。
これが絶筆となったようです。
鉛筆で書かれていましたが、筆圧がなく消え入りそうな字です。

 季人様 随分勝手気まま申しました
凡てを許して下さいましてほんとうにうれしく ちづは 逝きます
ありがとうございました
今後 あなたの すくすくと 美はしくおのびになる事を念じて止みません
晃子は賢い子です
可愛がるのみで あなたの様に 美しくのびます
私としては 之程うれしいことはございません


 祖母は、粟粒結核(ぞくりゅうけっかく)という、病気で亡くなったそうです。(結核菌が血液の流れにのり、全身にまき散らされ、多数の臓器におびただしい数の結核性病変が形成された状態をいいます。)
大変な苦しみを味わったのではないでしょうか。

 娘に宛てた遺書は、亡くなる2年くらい前に書かれています。
祖母が亡くなったとき、私の母は4歳半だったようです。
母は、祖母の一人娘でした。
書かれた用紙は、A6サイズほどのノートで、清書しようと半ページだけ書きかけた原稿用紙が残されていました。結局力尽きて、ノートの下書きのままで終わったようです。
 母は、この遺書を何歳の時に読み、いくつになってこの内容を理解したのでしょうか?

 ごく最近、叔父が、古い家を整理していて見つけました。
夫婦(祖父、祖母)の往復書簡や母や曾祖母のものも出てきました。

 私の母も、私が10歳の時に結核で亡くなりました。
その後、私の父は再婚したため、母方の親戚とのお付き合いが疎遠になっていました。
私が、母方の親戚との親交を復活できたのは、まだここ10年くらい、私が50歳を過ぎてからです。
私は、祖母のことを全く知らず、教えてくれる人もありませんでした。

 この遺書を通して初めて、祖母と出会うことができました。
祖母がどんな人だったのか少しだけ分かりました。
祖母の中に、重なっている自分が見えました。

 私にとってかけがえのない宝物は、子供たちの幼いころのアルバムと学校時代の作品集ですが、これらの遺書や書簡も同じく大切な大切な宝物になりました。
 この歳になって、先祖のことをしっかり知りたいと思うようになりましたが、訊ける人はずいぶんと少なくなりました。ですから、私は、自分の孫やひ孫のために、いろんな記録を残しておいてやりたいと思うようになりました。そして、子孫のために恥ずかしくない生き方をしておかなければならないとも思うようになりました。

 今、私が熊本から連れてきて面倒を看ている叔母は、祖父の後妻の娘、つまり、母の腹違いの妹です。
「まだ見ぬ晃子の新しき母さま」の子供です。

 そして、今日は、母の誕生日でもあり53回忌でもあります。
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