手紙以外に文章らしいものは書いたこともない私が、末永で出会った方々の心温まるエピソードの数々を、まだ感動の冷めやらぬうちに是非とも書き留めておきたいと思うようになりました。
自分一人の胸の内に仕舞い込むのは、余りにも勿体無いと思ったからです。そして、近い将来、これが一冊の本になれば良いなと思っています。
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(とりあえずUP DATEしました。もう少し読みやすいように手直しはしていくつもりです。 それまでゴメンナサイ)
第1部2002.・4月〜8月 とてもとても長〜いお話です
前原市の末永の住人になって、1年2ヶ月が過ぎた。
この1年2ヶ月は、私にとって毎日が感動と感謝の日々だった。
今まで住んでいたのは、いわゆる新興住宅地で都心部からの移住者が占めているベッドタウンだった。
私自身勤めていたこともあって、ひしめき合って立ち並ぶご近所の方と顔を合わせるのはひと月のうちに何度もなかったし、お隣だって、おすそ分けか回覧版を持っていく時くらいのもの。
それが当たり前の生活で、誰も干渉もしないし、それぞれが忙しく個々の生活を営んでおり煩わしくもなかった。
14年間も暮らしていながら、自宅前の通路に向い合って並ぶ20軒以外のご町内の方をほとんど知らないで過ごした。
ところが、この末永に越して来てから環境が一変した。
なぜここの方達は、こんなにも優しくて素朴なんだろう。
何かしら懐かしさで一杯になるのはなぜだろう?
道ですれ違っても、挨拶を交わしながらみんな必ず一言しゃべって(一言じゃない時が多いのだが)過ぎて行く。
ここには、遠い子供の頃に味わった、古い良き時代の人々のふれあいが、田園風景や農家の納屋を背景にして、さも当然であるが如くまだ残っていた。
一軒一軒の占有面積も200〜300坪がざらで、ゆったりと佇んでいる。
そして、野山には昔ながらの数知れない野の花たちが、1年中咲き続けていた。
極寒の最中さえ冬苺の赤い実がなり(冬苺だから冬になるのが当たり前なのだが)、ペンペン草が可憐な白い花を付け、白や紫色のスミレがわずかな陽の光を浴びて至る所に咲いていた。
春が始まると、まるで大地の歓喜を象徴するかのように野山は、野の花たちに彩られていった。
黄色や薄紫や白、ピンクの無数の花々が暖かな風に揺れ、みつばちたちの羽音やうぐいすの鳴く声、川にはクレソンも数多く自生していた。裏手の山のほうに足を伸ばすと、ふきのとう、ふき、つわぶき、ぜんまい、わらび、野三つ葉、野苺の宝庫だったし、山菜採りに事欠くことはなかった。
そんな長閑な環境が、人々を大らかに優しくさせるのだろうか?
そう思い続けて1年余、忘れてしまわない内に記述して残しておきたいと思うようになった。
私だけの胸の中に仕舞い込んでおくのは余りにも勿体ないから。
もしこれが、若い頃だったらとても煩わしくて我慢できなかっただろう。この歳になって分かること。
決して自分一人で生きているのではないと。そして、普段着で生きて行くのが一番楽なんだと。
そんな、思いで綴る、末永で出会った方々の心温まるエピソードの数々。
去年の7月のことだ。引越しの翌日、深夜まで片付け作業をして疲れて寝ていた私は、いきなり襖を開ける音に驚かされる。
「まあだ寝とんしゃったと?・・・よかよか寝ときんしゃい、野菜ば流しに置いとくけん!」
裏の家に住むおばあさんのフジエさんだった。
私は、昔から家の玄関に鍵をかけないことが多い。「なんと物騒な!」と人からいつも忠告を受けるけれど何だか、そんな気にはなれないのだ。
しかし、びっくりした。何にも言わずに黙ってよその家に上がり込んで来るなんて!
「ああ、今朝方寝たばっかりなもんで・・・お野菜?あら、ありがとうございます。」そう答えながら、そうかここはそんな地域なのかと納得した。
また寝直して昼近く起きた私は、遅い朝食を食べ、毎日の習慣でトイレに行きたくなった。
ところが、この50数年経った農家風の住居のトイレは外なのだった。
昔ながらのぼっとんトイレだ。まあ、それも良いか、環境に順じましょう、とトイレのドアを開けた。
ところが、ああー悲しいことにひど〜く汚れている!でも、とにかく早く排泄したい。
観念した私は便器にまたがり、ひとつボットーン・・・!
キャー!!!
何と何と、お釣りが来たのだ!
もう出るものも出ず慌てて飛び出した。
後で分かったことだが、そのトイレは古くて、便層にひびが入っていたので雨水がたくさん溜まっていたのだった。
古い方なら分かっていただけるだろうけれど、昔の学校のトイレ。
ほとんどみんな学校ではおしっこしかしないので便層はまさに"おしっこのプール"だった。
便層の深さは、1mもあったのだろうか?
そんな中に、2m以上も離れた便器から物を落とすと確実にお釣りが来るものだ。
たった一度だったけれど、そのお釣りをもらった経験が私にはあった。
その時の恐怖心は、40年経った今でもトラウマとなって残っている。
夢を見る。トイレに行きたくて、公衆トイレのドアを開ける。便器が一杯に汚れている。
足を置く所にもウンチがある。ドアを閉めて次のドアを開ける。
古い床のあちこちに踏み破られた穴が開いていて足の踏み場がない。
ああ、ここもだめ!次のドア。キャー!壁にもウンチが付いている!
いくつかのドアを開けてやっと入った場所で用足しをする。
「ぼっと〜ん」
「ちゃっぽ〜ん」
わぁ〜、恐怖のお釣りが帰って来たぁ〜!
私は、相変わらず子供時代の夢を後生大事に持ち回っているのだ。
ちょっと、途中下車します(2003.12.1)
俳優座の美術担当をしている、私の東京の知人から、このエッセイを読んで思い出した・・・と面白い話が届きました。
(先日のテレビ朝日系で放映された”流転の王妃”や”オペラ座の怪人”などの彫刻担当をした方です。
”野の花”の玄関に掛かっている「野の花」の絵画も彼の作品です。)
私の北見(北海道)の方でも、外に一回出てから、吹雪の中を雪をかきわけて行った思い出が蘇って来ました。
雪が、小窓から中に入って来てとても寒かったです。また、寒いため、水分のあるもの全てが凍り付き、どんどん山のように盛り上がり、ついには落ちて行く所まで上がってくるのでとても大変でした。
足下近くまで盛り上って来た大盛サービスの塊を、母がツルハシという道具で頑張って崩していたのを覚えています。
なんと!九州のような所で暮らす我々には、想像もした事のないお話だと思いませんか?
おまけ(全く関係ない方ですが、ぼっとんトイレのお話です)
http://www.ne.jp/asahi/happy/jollyboy/essay02.htm
さあ、また話を先ほどに戻します。
お客様稼業をするつもりなので、トイレを家の中に作る計画はあった。
(今は、ちゃんと合併浄化槽のウォシュレット・トイレです。)
しかし、リフォームしてもらう筈の私の仲間の大工さんの着工予定は、2ヶ月先の9月からだった。
「これはいけない!何としても早々にトイレだけは作らねば!」
私は、お向いの家に行き、誰か良い大工さんを紹介して欲しいと相談した。
玄関先で要件を済ませるつもりだったのに、ご夫婦から「どうぞどうぞ」と客間に通され、私は厚かましくもお茶を頂きながら相談を持ちかけた。
「まあ、それは大変ねえ。ほんとう?キャーやめて!そんな話」奥さんの和代さんは言いながら、心底同情してくれた。
「トイレが出来るまで、家のトイレを使ってちょうだい。私達、いないこともあるけれど勝手に入っていいけん。
家の合い鍵を渡しておくから・・・。」と。
まだ私がどんな人間かも分かりもしないのに、そんなことってあるだろか?
整然と片付いた立派なお屋敷には、金目のものもたくさん有りそうではないか。
廊下だって顔が映りそうに磨きがかかっている。
実は、このご夫婦との出会いは、この2ヶ月前の4月末にさかのぼる。
今の住宅兼店舗の物件に巡り合った頃、先様の事情ですぐには入居できなかった。
そこで仕方なく仮住まいをすることになったのだけど、その仮住まいのための借家を探していて、まだ地域の事情に疎い私は、末永行政区の区長さんに訊ねてみることにした。(この区長さんの奥さんが和代さんである。)
普通田舎では、借家なんてほとんどないに等しい。なぜなら、ほとんどが地元の人だし、便利でもない所にわざわざ家を借りようとする人も居ないのだ。
空家はあるにしても、お年よりの住まいだった所で、今は住む人も無く、遠くに住む子供、親戚の管理下にあり借家にはならない事が多い。
2001.8月、会社を辞め、料理店をやろうと決心したころ、当初は大分県の中津での開業を計画していた。
2001.10月、それまで住んでいた住居を売却することを考え、不動産屋さんに相談して広告を出してもらった所、何と1週間も経たないうちに買主が決まってしまった。住居の明渡しは、翌年の4月末日。
2002.2月中旬、目星を付けていた中津の不動産の契約に行った。
ところが、契約をするという段階まで来て深〜い事情からドタキャンをしてしまったのだ。
それに、良く考えてみるとやっぱり福岡で開業したほうが良い。会社時代に培ったネットワークがあった。
福岡に30年間も暮らしているのだ。
ちゃんと事業をやろうとする人なら、こんな無謀で無計画なあほなことはしないだろう。
さあ、どうしよう!住んでいる家は、後2ヶ月半で退去しなければならないのに、それまでに物件が見つかるのだろうか?
ありとあらゆる不動産屋さんに問い合わせをした。
そしてその時、とてつもなくお世話になったのが、このHPの"野の花のなかまたち"で紹介している「田代屋住宅」さんである。
田代屋さんでも、一生懸命物件を探してくれた。そして、何軒も現地に案内もしてくれた。
しかし、私の思い描く条件の物件は、多分不動産情報としてはなかなかないものであったろう。となるともう自分で探すしか道はないのである。
毎日毎日、物件探しに明け暮れた。来る日も来る日も当てのないドライブをした。
車を止めて、細い道をくまなく歩いた。空家を見つけると近所の方に、持ち主と連絡先を訊ねて回った。
持ち主に会って交渉もした。めぼしい物件を見つけると、田代屋住宅さんにその評価相談をした。
土曜日であろうと日曜日であろうと、はたまた平日であろうと私の申し出る物件の品定めに付き合って、プロの目から見た判断を下してくれた。
土日は、不動産屋さんは休日であるし、平日は、本来の他のお客様のために忙しいはずである。
自分の会社が仲介して売買手続きの世話をしたのに、その住む家を追われ、開業の夢と希望が一転して、宿無しになりそうだという一種の哀れさを誘ったのだろうか?
田代屋住宅さんは、実は私が会社に勤めて営業をしている時のお客様であった。この頃も、随分とお世話になっていたのに、もっともっとお世話になる羽目になってしまった。
退職のご挨拶に伺った時に、家を売る話をしたら、「うちに任せていただけませんか?」という社長の言葉。
「こんな人の物件の世話をするといったばかりに、とんだ厄介なことまで引き受ける事になってしまった。」と、きっと内心後悔されたのではなかろうか?
今考えても、田代屋住宅の社長と宅建主任の山口さんが居て下さらなかったらどうなっただろうと思う。
それはそれは、本当に商売抜きでベッタリ2ヶ月半も付き合って下さったのである。
(報酬など要らないとご辞退はされたが、自分の気持ちが済まないので、僅かではあったが謝礼は受け取って頂いた。=今後の、田代屋住宅のお客様の為に申し添えておきたい。)
物件を見学の為に自宅付近まで来られた時に、一度、ささやかだが心を込めてお昼の食事を用意したことがあった。春だったので、近くで採れた山菜などで作った料理をお出ししたのだが、たまたま社長の口に合ったのかとても喜んで下さって、「僕は、今日初めて、あなたのこれからの夢を理解することが出来ました。協力しますから、是非良い店を作って下さい。」とおっしゃって下さったのを忘れることが出来ない。
言葉には表せないほどの挫折を味わいながら、「これならよかろう」と田代屋さんも何とか同意してくれるような物件をやっと見つけたのは、2002年4月末のこと。まさに綱渡りであった。
しかし、前述の通り、すぐには入居できない事情があった。従って何とか借家が必要だったのだ。
それで、買い上げた家の近くに、だめ元で借家を探してみる事にした。
そして、区長さんの有弘(くにひろ)さんを訪ねたのだった。(田舎では、同姓の家が多く、下の名前で呼ばないと通じない。)
「いやねえ、借家ですか?こんなとこには借家なんてないですもんねえ。」
「はぁー、そうですか・・・。」(ションボリ)
「お父さん、あそこは?ほら、泰則ちゃんとこ!」と和代さん。
「・・・ああ!泰則んとこがあるたい!そうでした、私のいとこの家で、3月末に空いたとですよ。古い家ですけど、その奥に新築して住んどりますけん古い家は、人に貸しとったとですよ。そこが空いとるはずです。ははは・・・そうです、そうです!ははははは・・・家主は、夜にしか戻りませんが帰ってきたら訊いて見ましょう。ああー、そうでしたか?ここは本当に田舎で、都心から見えられた人には(別に都心から来たわけではなかったけれど、勤務のために30年間も、繁華街の天神や博多駅に通っていたのだからそういう見方も出来るかもしれない。)昔の風習やら面倒くさいことが残っとるから少し戸惑われるかもしれませんけど、ここは、みんなが仲良く住もうとしている所です。まあ、そういう事でしたらどうぞ仲良くしてください。よろしくお願いします。」
そう言って65歳を過ぎた区長さんは、嬉しそうにニコニコと頭を下げられたのである。
普通の閉鎖的な地域だったらとてもこんな具合には行かないだろう。たとえ開放的な所だとしても
いきなり訪ねてきたよそ者に対して、少なくとも懐疑的な思惑を持たないことはないのではないか?
それを、こんな風に謙虚に親しみを込めて頭を下げられることに、いささか私の方が面食らってしまったのであった。
それにしても、何と言う温かな方なのだろう。
・・・心の中に、居心地の良い幸せ感が広がっていった。
夜8時過ぎに大家さんの泰則さんからのTELが鳴った。貸してくれると言う。
「じゃあ、今からすぐにお伺いしますから・・・」と言う私に「いえ、別によろしいですよ。わざわざお出でにならなくても。」
「え?でも、ご挨拶もしたいですし・・・」
「ご挨拶だなんて、いえいえ、もう明日から住んで頂いても構いませんから。ただし、あんな古い家ですが、メンテは出来ませんので。」
「仮住まいですからメンテは、結構ですけれど、でも、ご挨拶はさせて頂きたいし、それに鍵もお借りしなければいけませんので・・・。それに、お家賃のことも伺いたいし。」
「ああ、そうですね。鍵ですね。そうか!・・・鍵はですね、有るには有るんですが30年近くかけたことが無いんです。じゃあ、用意しておきます。」
10分後には、現場に着いた。元の家から6Kmの道程である。
古いとはいえ中は、7kの広さであった。300坪ほどの敷地の手前に20m近い古い納屋が、道に面して立っている。
牛小屋、馬小屋、農機具用の納屋だったのだろう。
中は、そんな仕切りがあった。今でもトラクターや農機具が入っていたし、家庭用の道具類もたくさん詰まっていた。
泰則さんのお父さんは、区長さん(有弘さん)の従兄弟で、10年程前までは農業をされていたと言う。
納屋の横には、鉤型につながったこれまた古い蔵も有る。
そして借家。敷地の奥には、立派な現代風の建物。借家の前にも、庭があって、植木がたくさん植わっている。
昔は立派だったのだろう。
家賃はと聞けば、1万円で良いという。えー?まさかぁ!
「敷金は?」
「いやあ、敷金なんか要らんですよ。」
「2、3日うちに引っ越して来たいんですが、日割りはいくら差し上げたらよろしいですか?」
「そんなもん、要らんですよ。ははは・・・」おじさんの有弘さんに負けじと、これまた腰の低い、笑顔の優しい素朴で爽やかな方だった。
「・・・・!」
普段でさえ涙もろい私は、お礼の言葉も出て来ないまま、ウルウルと頭を下げた。
行く当てもなく困り果てていた私に、新しい道が切り開かれた。それも、こんな格好で展開して行くなんて。
ここの末永という土地は、全く別の人種が住んでいるのかと本気で思ってしまった。
人間やっぱり当って砕けろなのだ。たとえ空振りだったとしても、恥を掻くことがあったとしても、でも諦めないことだ。