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野の花物語パート2はこちらです
■野の花物語(末永のあんな人こんな人)  (執筆2003年7月)
                                  (2003年12月1日トイレ事情追加)

 手紙以外に文章らしいものは書いたこともない私が、末永で出会った方々の心温まるエピソードの数々を、まだ感動の冷めやらぬうちに是非とも書き留めておきたいと思うようになりました。
自分一人の胸の内に仕舞い込むのは、余りにも勿体無いと思ったからです。そして、近い将来、これが一冊の本になれば良いなと思っています。
 感想、批評、お気づきの点等、何でもメッセージを”掲示板”までお寄せ下さい。

(とりあえずUP DATEしました。もう少し読みやすいように手直しはしていくつもりです。 それまでゴメンナサイ)

第1部2002.・4月〜8月            とてもとても長〜いお話です

 前原市の末永の住人になって、1年2ヶ月が過ぎた。
この1年2ヶ月は、私にとって毎日が感動と感謝の日々だった。

 今まで住んでいたのは、いわゆる新興住宅地で都心部からの移住者が占めているベッドタウンだった。
私自身勤めていたこともあって、ひしめき合って立ち並ぶご近所の方と顔を合わせるのはひと月のうちに何度もなかったし、お隣だって、おすそ分けか回覧版を持っていく時くらいのもの。
それが当たり前の生活で、誰も干渉もしないし、それぞれが忙しく個々の生活を営んでおり煩わしくもなかった。
14年間も暮らしていながら、自宅前の通路に向い合って並ぶ20軒以外のご町内の方をほとんど知らないで過ごした。

 ところが、この末永に越して来てから環境が一変した。
なぜここの方達は、こんなにも優しくて素朴なんだろう。
何かしら懐かしさで一杯になるのはなぜだろう?
道ですれ違っても、挨拶を交わしながらみんな必ず一言しゃべって(一言じゃない時が多いのだが)過ぎて行く。
ここには、遠い子供の頃に味わった、古い良き時代の人々のふれあいが、田園風景や農家の納屋を背景にして、さも当然であるが如くまだ残っていた。
一軒一軒の占有面積も200〜300坪がざらで、ゆったりと佇んでいる。

 そして、野山には昔ながらの数知れない野の花たちが、1年中咲き続けていた。
極寒の最中さえ冬苺の赤い実がなり(冬苺だから冬になるのが当たり前なのだが)、ペンペン草が可憐な白い花を付け、白や紫色のスミレがわずかな陽の光を浴びて至る所に咲いていた。
春が始まると、まるで大地の歓喜を象徴するかのように野山は、野の花たちに彩られていった。
黄色や薄紫や白、ピンクの無数の花々が暖かな風に揺れ、みつばちたちの羽音やうぐいすの鳴く声、川にはクレソンも数多く自生していた。裏手の山のほうに足を伸ばすと、ふきのとう、ふき、つわぶき、ぜんまい、わらび、野三つ葉、野苺の宝庫だったし、山菜採りに事欠くことはなかった。

 そんな長閑な環境が、人々を大らかに優しくさせるのだろうか?
そう思い続けて1年余、忘れてしまわない内に記述して残しておきたいと思うようになった。
私だけの胸の中に仕舞い込んでおくのは余りにも勿体ないから。
 もしこれが、若い頃だったらとても煩わしくて我慢できなかっただろう。この歳になって分かること。
決して自分一人で生きているのではないと。そして、普段着で生きて行くのが一番楽なんだと。
そんな、思いで綴る、末永で出会った方々の心温まるエピソードの数々。

 去年の7月のことだ。引越しの翌日、深夜まで片付け作業をして疲れて寝ていた私は、いきなり襖を開ける音に驚かされる。
「まあだ寝とんしゃったと?・・・よかよか寝ときんしゃい、野菜ば流しに置いとくけん!」
裏の家に住むおばあさんのフジエさんだった。
 私は、昔から家の玄関に鍵をかけないことが多い。「なんと物騒な!」と人からいつも忠告を受けるけれど何だか、そんな気にはなれないのだ。
 しかし、びっくりした。何にも言わずに黙ってよその家に上がり込んで来るなんて!
「ああ、今朝方寝たばっかりなもんで・・・お野菜?あら、ありがとうございます。」そう答えながら、そうかここはそんな地域なのかと納得した。

 また寝直して昼近く起きた私は、遅い朝食を食べ、毎日の習慣でトイレに行きたくなった。
ところが、この50数年経った農家風の住居のトイレは外なのだった。
昔ながらのぼっとんトイレだ。まあ、それも良いか、環境に順じましょう、とトイレのドアを開けた。
ところが、ああー悲しいことにひど〜く汚れている!でも、とにかく早く排泄したい。
観念した私は便器にまたがり、ひとつボットーン・・・!
キャー!!!
何と何と、お釣りが来たのだ!
もう出るものも出ず慌てて飛び出した。

 後で分かったことだが、そのトイレは古くて、便層にひびが入っていたので雨水がたくさん溜まっていたのだった。
古い方なら分かっていただけるだろうけれど、昔の学校のトイレ。
ほとんどみんな学校ではおしっこしかしないので便層はまさに"おしっこのプール"だった。
便層の深さは、1mもあったのだろうか?
そんな中に、2m以上も離れた便器から物を落とすと確実にお釣りが来るものだ。
たった一度だったけれど、そのお釣りをもらった経験が私にはあった。
その時の恐怖心は、40年経った今でもトラウマとなって残っている。
 夢を見る。トイレに行きたくて、公衆トイレのドアを開ける。便器が一杯に汚れている。
足を置く所にもウンチがある。ドアを閉めて次のドアを開ける。
古い床のあちこちに踏み破られた穴が開いていて足の踏み場がない。
ああ、ここもだめ!次のドア。キャー!壁にもウンチが付いている!
いくつかのドアを開けてやっと入った場所で用足しをする。
「ぼっと〜ん」
「ちゃっぽ〜ん」
わぁ〜、恐怖のお釣りが帰って来たぁ〜!
私は、相変わらず子供時代の夢を後生大事に持ち回っているのだ。

 ちょっと、途中下車します(2003.12.1)
 俳優座の美術担当をしている、私の東京の知人から、このエッセイを読んで思い出した・・・と面白い話が届きました。
(先日のテレビ朝日系で放映された”流転の王妃”や”オペラ座の怪人”などの彫刻担当をした方です。
”野の花”の玄関に掛かっている「野の花」の絵画も彼の作品です。)

 私の北見(北海道)の方でも、外に一回出てから、吹雪の中を雪をかきわけて行った思い出が蘇って来ました。
 雪が、小窓から中に入って来てとても寒かったです。また、寒いため、水分のあるもの全てが凍り付き、どんどん山のように盛り上がり、ついには落ちて行く所まで上がってくるのでとても大変でした。
足下近くまで盛り上って来た大盛サービスの塊を、母がツルハシという道具で頑張って崩していたのを覚えています。

なんと!九州のような所で暮らす我々には、想像もした事のないお話だと思いませんか?

 おまけ(全く関係ない方ですが、ぼっとんトイレのお話です)
    http://www.ne.jp/asahi/happy/jollyboy/essay02.htm

 さあまた話を先ほどに戻します。

 お客様稼業をするつもりなので、トイレを家の中に作る計画はあった。
(今は、ちゃんと合併浄化槽のウォシュレット・トイレです。)
しかし、リフォームしてもらう筈の私の仲間の大工さんの着工予定は、2ヶ月先の9月からだった。
「これはいけない!何としても早々にトイレだけは作らねば!」
 私は、お向いの家に行き、誰か良い大工さんを紹介して欲しいと相談した。
玄関先で要件を済ませるつもりだったのに、ご夫婦から「どうぞどうぞ」と客間に通され、私は厚かましくも
お茶を頂きながら相談を持ちかけた。
「まあ、それは大変ねえ。ほんとう?キャーやめて!そんな話」奥さんの和代さんは言いながら、心底同情してくれた。
「トイレが出来るまで、家のトイレを使ってちょうだい。私達、いないこともあるけれど勝手に入っていいけん。
家の合い鍵を渡しておくから・・・。」と。
 まだ私がどんな人間かも分かりもしないのに、そんなことってあるだろか?
整然と片付いた立派なお屋敷には、金目のものもたくさん有りそうではないか。
廊下だって顔が映りそうに磨きがかかっている。

 実は、このご夫婦との出会いは、この2ヶ月前の4月末にさかのぼる。
今の住宅兼店舗の物件に巡り合った頃、先様の事情ですぐには入居できなかった。
そこで仕方なく仮住まいをすることになったのだけど、その仮住まいのための借家を探していて、まだ地域の事情に疎い私は、末永行政区の区長さんに訊ねてみることにした。(この区長さんの奥さんが和代さんである。)

 普通田舎では、借家なんてほとんどないに等しい。なぜなら、ほとんどが地元の人だし、便利でもない所にわざわざ家を借りようとする人も居ないのだ。
空家はあるにしても、お年よりの住まいだった所で、今は住む人も無く、遠くに住む子供、親戚の管理下にあり借家にはならない事が多い。

 2001.8月、会社を辞め、料理店をやろうと決心したころ、当初は大分県の中津での開業を計画していた。
 2001.10月、それまで住んでいた住居を売却することを考え、不動産屋さんに相談して広告を出してもらった所、何と1週間も経たないうちに買主が決まってしまった。住居の明渡しは、翌年の4月末日。
 2002.2月中旬、目星を付けていた中津の不動産の契約に行った。
ところが、契約をするという段階まで来て深〜い事情からドタキャンをしてしまったのだ。
それに、良く考えてみるとやっぱり福岡で開業したほうが良い。会社時代に培ったネットワークがあった。
福岡に30年間も暮らしているのだ。
ちゃんと事業をやろうとする人なら、こんな無謀で無計画なあほなことはしないだろう。

 さあ、どうしよう!住んでいる家は、後2ヶ月半で退去しなければならないのに、それまでに物件が見つかるのだろうか?
ありとあらゆる不動産屋さんに問い合わせをした。
そしてその時、とてつもなくお世話になったのが、このHPの"野の花のなかまたち"で紹介している「田代屋住宅」さんである。
田代屋さんでも、一生懸命物件を探してくれた。そして、何軒も現地に案内もしてくれた。
しかし、私の思い描く条件の物件は、多分不動産情報としてはなかなかないものであったろう。となるともう自分で探すしか道はないのである。
 毎日毎日、物件探しに明け暮れた。来る日も来る日も当てのないドライブをした。
車を止めて、細い道をくまなく歩いた。空家を見つけると近所の方に、持ち主と連絡先を訊ねて回った。
持ち主に会って交渉もした。めぼしい物件を見つけると、田代屋住宅さんにその評価相談をした。
土曜日であろうと日曜日であろうと、はたまた平日であろうと私の申し出る物件の品定めに付き合って、プロの目から見た判断を下してくれた。
土日は、不動産屋さんは休日であるし、平日は、本来の他のお客様のために忙しいはずである。
自分の会社が仲介して売買手続きの世話をしたのに、その住む家を追われ、開業の夢と希望が一転して、宿無しになりそうだという一種の哀れさを誘ったのだろうか?

 田代屋住宅さんは、実は私が会社に勤めて営業をしている時のお客様であった。この頃も、随分とお世話になっていたのに、もっともっとお世話になる羽目になってしまった。
 退職のご挨拶に伺った時に、家を売る話をしたら、「うちに任せていただけませんか?」という社長の言葉。
「こんな人の物件の世話をするといったばかりに、とんだ厄介なことまで引き受ける事になってしまった。」と、きっと内心後悔されたのではなかろうか?
 今考えても、田代屋住宅の社長と宅建主任の山口さんが居て下さらなかったらどうなっただろうと思う。
それはそれは、本当に商売抜きでベッタリ2ヶ月半も付き合って下さったのである。
(報酬など要らないとご辞退はされたが、自分の気持ちが済まないので、僅かではあったが謝礼は受け取って頂いた。=今後の、田代屋住宅のお客様の為に申し添えておきたい。)
 物件を見学の為に自宅付近まで来られた時に、一度、ささやかだが心を込めてお昼の食事を用意したことがあった。春だったので、近くで採れた山菜などで作った料理をお出ししたのだが、たまたま社長の口に合ったのかとても喜んで下さって、「僕は、今日初めて、あなたのこれからの夢を理解することが出来ました。協力しますから、是非良い店を作って下さい。」とおっしゃって下さったのを忘れることが出来ない。
 言葉には表せないほどの挫折を味わいながら、「これならよかろう」と田代屋さんも何とか同意してくれるような物件をやっと見つけたのは、2002年4月末のこと。まさに綱渡りであった。

 しかし、前述の通り、すぐには入居できない事情があった。従って何とか借家が必要だったのだ。
それで、買い上げた家の近くに、だめ元で借家を探してみる事にした。
そして、区長さんの有弘(くにひろ)さんを訪ねたのだった。(田舎では、同姓の家が多く、下の名前で呼ばないと通じない。)
 「いやねえ、借家ですか?こんなとこには借家なんてないですもんねえ。」
「はぁー、そうですか・・・。」(ションボリ)
「お父さん、あそこは?ほら、泰則ちゃんとこ!」と和代さん。
「・・・ああ!泰則んとこがあるたい!そうでした、私のいとこの家で、3月末に空いたとですよ。古い家ですけど、その奥に新築して住んどりますけん古い家は、人に貸しとったとですよ。そこが空いとるはずです。ははは・・・そうです、そうです!ははははは・・・家主は、夜にしか戻りませんが帰ってきたら訊いて見ましょう。ああー、そうでしたか?ここは本当に田舎で、都心から見えられた人には(別に都心から来たわけではなかったけれど、勤務のために30年間も、繁華街の天神や博多駅に通っていたのだからそういう見方も出来るかもしれない。)昔の風習やら面倒くさいことが残っとるから少し戸惑われるかもしれませんけど、ここは、みんなが仲良く住もうとしている所です。まあ、そういう事でしたらどうぞ仲良くしてください。よろしくお願いします。」
そう言って65歳を過ぎた区長さんは、嬉しそうにニコニコと頭を下げられたのである。
 普通の閉鎖的な地域だったらとてもこんな具合には行かないだろう。たとえ開放的な所だとしても
いきなり訪ねてきたよそ者に対して、少なくとも懐疑的な思惑を持たないことはないのではないか?
それを、こんな風に謙虚に親しみを込めて頭を下げられることに、いささか私の方が面食らってしまったのであった。
それにしても、何と言う温かな方なのだろう。
・・・心の中に、居心地の良い幸せ感が広がっていった。

 夜8時過ぎに大家さんの泰則さんからのTELが鳴った。貸してくれると言う。
「じゃあ、今からすぐにお伺いしますから・・・」と言う私に「いえ、別によろしいですよ。わざわざお出でにならなくても。」
「え?でも、ご挨拶もしたいですし・・・」
「ご挨拶だなんて、いえいえ、もう明日から住んで頂いても構いませんから。ただし、あんな古い家ですが、メンテは出来ませんので。」
「仮住まいですからメンテは、結構ですけれど、でも、ご挨拶はさせて頂きたいし、それに鍵もお借りしなければいけませんので・・・。それに、お家賃のことも伺いたいし。」
「ああ、そうですね。鍵ですね。そうか!・・・鍵はですね、有るには有るんですが30年近くかけたことが無いんです。じゃあ、用意しておきます。」
 10分後には、現場に着いた。元の家から6Kmの道程である。
古いとはいえ中は、7kの広さであった。300坪ほどの敷地の手前に20m近い古い納屋が、道に面して立っている。
牛小屋、馬小屋、農機具用の納屋だったのだろう。
中は、そんな仕切りがあった。今でもトラクターや農機具が入っていたし、家庭用の道具類もたくさん詰まっていた。
泰則さんのお父さんは、区長さん(有弘さん)の従兄弟で、10年程前までは農業をされていたと言う。
 納屋の横には、鉤型につながったこれまた古い蔵も有る。
そして借家。敷地の奥には、立派な現代風の建物。借家の前にも、庭があって、植木がたくさん植わっている。
昔は立派だったのだろう。
家賃はと聞けば、1万円で良いという。えー?まさかぁ!
「敷金は?」
「いやあ、敷金なんか要らんですよ。」
「2、3日うちに引っ越して来たいんですが、日割りはいくら差し上げたらよろしいですか?」
「そんなもん、要らんですよ。ははは・・・」おじさんの有弘さんに負けじと、これまた腰の低い、笑顔の優しい素朴で爽やかな方だった。
「・・・・!」
普段でさえ涙もろい私は、お礼の言葉も出て来ないまま、ウルウルと頭を下げた。
 行く当てもなく困り果てていた私に、新しい道が切り開かれた。それも、こんな格好で展開して行くなんて。
ここの末永という土地は、全く別の人種が住んでいるのかと本気で思ってしまった。

 人間やっぱり当って砕けろなのだ。たとえ空振りだったとしても、恥を掻くことがあったとしても、でも諦めないことだ。

 

 

 

 

  泰則さんから借りていた借家
  この庭の奥に、泰則さん宅が
  ある
  敷地面積は、600坪くらいだろ
   うか?

 
 泰則さんご夫婦の生活は、とても忙しそうで早朝に出て夜遅くしか帰ってみえない。
土日は、息子さんの野球チームのコーチをなさっていて、病院に勤めていらっしゃる奥様も仕事が忙しそう。
庭に伸びた草や生垣の枯葉が庭のあちこちに吹き溜まっていたのがそれを物語っていた。
 それからの2ヶ月間私は、暇があると草取りや庭の掃除をした。裏の生垣の枝払いをした。
家から数10m程離れた所にある、おまけで借りた300坪近い畑も勿論ただだった。
10年近く使っていないという痩せたその田んぼに、落ち葉や払った生垣の枝を運んで堆肥を作り、夏野菜を植える準備をした。(300坪はとても使えない。使っているのは、せいぜい100坪弱だ)
草取りをしながら、庭を掃きながら「ありがとう、ありがとう」と泰則さんご夫婦に感謝の気持ちで一杯だった。「せめて、庭くらい綺麗にさせて下さい。」毎日が、そんな思いで過ぎて行った。
 だが、そんな想いとは裏腹に、他人の庭を勝手に掃除しまくって、もしかしたらとんでもない嫌味だと思われているのではなかろうか?「余計なお世話だ。」と。
でも、「いやぁ、すみませんねェ」とたまにお会いする大家さんの照れたような笑顔に、ほっと救われた思いがした。

  大家さんというと、年配の方を想像してしまいそうになる。でも、この泰則さんという方は、40歳過ぎだが、背が高くスマートでまるで青年のような爽やかな方なのだ。そして、野球のユニフォーム姿がとてもよく似合う。
 奥様の裕子(ひろこ)さんは、口数が少なく、一見取っ付きにくい。しかし、一旦話をすると、口数は少ないながら、ウイットに富んだ会話で、とても機転の利く、賢い方だということが良く分かる。泰則さんが、惚れられた気持ちが分かるような気がする。


 人間、窮地に追いやられてとことん圧縮される経験をすると、今ある普通の生活がどんなにありがたく、いかに人のお世話になって生きているかということを身を持って理解できるので、心から謙虚になれるものである。病床から脱出して、健康体になれたことを神に感謝する如く。
常に感謝の心で、謙虚に生きる事が出来るとしたら、人生何の不満もなく心静かに暮らせるのだろうに。
 

開業に向けての備品等の準備をやりながら畑では、好きな野菜作りを始めた。
野菜作りは、かれこれもう20年近くやっているが、全くのど素人で我流である。
この本格的な農業地域で、細々と不出来な野菜を作る姿は、プロの農家の方々から見れば滑稽に映った事だろう。
草は余り取らない。必要以外は耕しもしない。
 しかし、私は元来食べることにかけては人一倍執着が強い。美味しいものが食べれるんだったらどんなことでも厭わない。
頭脳労働より肉体労働(肉体労働は、運動音痴な私にとってはスポーツなのだ。)、土いじりが好きということもあるのだが、有機野菜と称して販売してある野菜のほとんどが、私にはどうも不味いのである。
ど素人の私が思うには、少しでも化学肥料を混ぜると野菜独特の甘さと香りが損なわれると思うのだ。(本当かな?)
勿論、農薬なんて使いたくない。見掛けは悪くても、でも自分の作った野菜は甘くて美味しい(これが本当の手前味噌)、そして安全性に絶対の信頼を置けるのである。

 「そんなやり方では、野菜は育たん」「こんな風にしたほうが良いのに」
きっと、そんなに思われているのだろう。でも、ここの方々はみんな本当に優しいのだ。
ただただ、温かく見守ってくれるのである。
 新参者が畑で作業をしていると、みんな物珍しくて仕方がない。
近所の方々は、私がどういう人か知らない。私は、まだご近所に正式に挨拶もしていない。
本住まいになったらきちんとご挨拶をしようと思っていたのだけど、私がどんな人間なのか早く知りたくて待ち切れない。特に、おじいさん、おばあさんは。
代わる代わる畑にやって来ては、
「どこから来たか」
「いくつか?」
「子供はいるのか、ご主人は?」
「新しい家にはいつから入るのか?」
「何でここに引っ越して来たのか?」
世間話と共に私は、質問攻めにあう。立ち話ではない、畑の土手に腰を下ろしては、じっくりと訊かれるのである。
でも、その何と長閑で好意的で人懐っこい事か。
懐かしい、ひなたの温かさがある。相手がおじいさん、おばあさんだからなのだろか?
 「働いたら腹も減るだろう」とパンや缶コーヒー、「のどが乾いたろう」とヤクルトや夏みかんの差し入れが届く。
話のきっかけを掴みたいからなのかもしれない。

 

犬の散歩で、車一台が通れるような細い、裏の山道を歩いていても人に出会うと「あんたはどこの人ですか?」と訊かれる。小型トラックに乗ったおじいさんも、わざわざ車を止めて、「あんた、見かけん人ばってんが、どなたですかね。」と。
 そして、数ヶ月が過ぎる頃、今度はどこを歩いていても、隣の部落(地域というより部落と言うほうが馴染みがあるのでそう言います。)を犬のクマとさまよっていてもみんな、私のことを知っている。誰に出会っても挨拶をするようにしているのだが、お互い初対面でもやはり私の事を知っているのである。「なぜ私の事を知っているんですか?」と訊いた事がある。「見たことのない顔は、あそこに越してきた人しか居らんもん。」なのだそうだ。

 郵便屋さんが、配達に来て聞きなれない私の家を探す。近所の人は、「あそこの家よ。」と教えてくれる。
宅急便が届く。私は、外出してたりもする。すると、「今、買い物に行っとんしゃるけん1時間はかかるやろう。」「今、犬の散歩やけん、しばらく待ったら帰って来んしゃるよ。」
勿論、私は、外出時に近所の人にその旨を言って家を出ているわけではない。というか、誰にも会わないで出かけているのに、一体どこの窓から見られているんだろう?
おじいさん、おばあさんが留守番をしてくれている、そんな所だ。

 こんなこともあった。家から10件も離れた所に住む人に道で会った。(ここで10軒というと、300m以上は距離がある。)
「昨日は、お客さんの来とらしたね。(来ていたね)」
「え?どうして知っているんですか?うちに入られる所を見たんですか?」
「見らんちゃ分かるさ。うちの家の前を、ゆるゆると家を探しながら車の行きよった。知らん車だったけん、あんたんとこしか行かんやろうもん。」
へえー、そうですか。恐れ入りました。

 そのうち、ご近所から野菜が届くようになった。留守をしていても、玄関の前に置いてある。
それも一人暮らしの身では食べ切れないほどの量だ。おまけに、友達なんかが来ていると、「あんたんとこは人が来てるけん、数が要るだろう。」と更に量が増える。(私は、曲がりなりにも自分で野菜を作っている。)
いつ人が来て、いつ帰って行った、まで完全に把握されている。
しかし、何ともありがたい。好意的な温かさがじわーっと心に染みるのだ。

  その時の野菜の中身と置き方で、誰が持って来てくれたのかまで次第に分かるようになって来た。
わざわざ、地面のある所に置いて、砂文字で大きく、「次夫」と書いて知らせてくれる人も居る。何とも愉しいではないか?
 

 

「今日は、天気の良かねえ。
 朝から、大根ば引いてきた
  ばってん、食ぶるね?」

 もう、90歳になる次夫さん

 「あんた方ん畑に、またトラクター
 ば入れにゃならんね。草の生え
  てきたねえー。」

 いつも、お世話になります。

 幸江さんも、いつも届けてくれる一人である。今年の春に、怪我をされてからは余り出歩かれることも少なくなったが、それまでは、配達は専ら自転車だった。
「おじいさんが作る人で、わたしゃ配達する人たい。」
「あんたんとこ、かぼちゃはまだやっとらんやったろう?トマトはこの前もって来たたいね。あと、○○さんとこと、××さんとこと、まだ持って行っとらんじゃった。・・・もう、年取ったら物覚えの悪うてかなわん。ははは・・・」と汗を拭き吹き、「わたしゃ、ちゃんと表ば作っとるとよ。40軒からやらないかんけんな。みんなに平等に上げないかん(上げないといけない)。あと、4、5軒残っとるばってん、その人たちにゃ、2番植えのかぼちゃばやらないかん。もうそろそろなりだすけんね(実がなる)。家のおじいさんな、我が家で食べる分は少しで良かとに、あげん(あんなに)いっぱい作んしゃって、ほとんど、人にやるためやもん。ばってん、功徳と思うてな。」・・・功徳かぁ、良い言葉だなぁ。
 座り込んでいた玄関先から立ち上がる時、曲がった腰と背中をゆるゆると伸ばしながら、身体を反らせ終わって、横向きになって言う。「・・・あーたも、人には程ようしときんしゃいよ(親切にしておきなさい)。そしたら、悪かことは、なかけんね(ないからね)。」
その穏やかな笑顔につられてふと、童心に戻る。こっくりと素直に頭を縦に振る。
  私のおばあちゃんもこんな風に包み込むように優しかった。
 

 2ヶ月が過ぎて、7月、私はいよいよ目指す本宅に入居した。
すると、真っ先に、冒頭に書いたような裏の家のおばあさんから、寝ている所を見られる所から新しい生活が始まって行く。
 庭で花壇作りや草取りをしている。すると、裏のおじいさんがやって来る。そして、草取りを手伝ってくれる。花壇作りの石を動かす手伝いをしてくれる。78歳になる清さんだった。
敷地が250坪ほどあると庭の草取りだけでも結構大変である。引っ越した当初、敷地の端にある花壇に笹竹が繁殖していて困った。
 元来が厚かましいのと、お年寄りが好きで、すぐに甘えたがる私は、清さんに言った。
「ねえ、清さん、この笹竹、何とかならないかしら?これ全部取っ払いたいんだけどなぁ。お金払いますからやってもらえると助かるんですけど。」
「よか!明日俺がやっちゃる!」
 夜をこよなく愛する私は、朝が遅い。翌朝、10時頃庭に出てみると清さんが一生懸命鍬を振りかざして作業をしてくれていた。朝の6時前からやってくれているのだそうだ。
「もう、暑うなってきたけんがまた明日の朝にしよう。」と、半分残して帰って行った。7月の半ばの事である。そう言ったのに、お昼過ぎにはまた来てくれている。そして夕方までかかって綺麗に丁寧に仕上げてくれた。(ありがとう清さん!)僅かだが勿論、お礼を支払った。
 2階にある私の寝室からは、庭の正面が綺麗に見渡せる。
早朝、6時前から私の庭でうろうろしている清さんを時々見かけるようになった。
何をしてるって?作って間もない殺風景な花壇に、勝手に花を植えている。
「今日は、黄色か(黄色の)彼岸花ば植えとったけんな。ありゃ、よう増えるたい。咲いたら綺麗かばな(綺麗よ)。」
「今日は、○○ば植えたたい。付くと良かばってん(根付くと良いけど)。」

 敷地内の草も伸びて、もうそろそろ限界だと思う頃、ふと気が付くと草がない!
清さんだったり、隣のおばあさんだったり。・・・いつもありがとう。

 


これが、愛すべき清さんです。
本当は、清馬(きよま)さんと言います。
野菜に立てる添え木を山で採って、束ねています。

 敷地の北側に、裏の数軒の家に続く細い道がある。道の横は畑。舗装されていなくて私の敷地沿いのブロックの横に、いつも草がはびこる。引っ越してしばらくは、自分が通ることのない道だから草が生えるのも気が付かなかった。しかし、ある日、裏の家の方々が数人で草取りをされていた。ひゃぁ〜、私が取るべき草ではないか。
 「すいませ〜ん。」私は、慌てて自分の気配りの無さを恥じて詫びた。しかし、その時は、もう綺麗に草取りが終わっていたのだった。
「いいとよ。別にあなたが謝らんでも。みんなが通る道だもん。みんなで取らんとね。お互い様たい。」
 そうなのだ。ここは、そんな所なのだ。みんな、口を開けば「みんなで仲良く協力し合わねば・・・。」と言うのだ。「お互い様」が当たり前の所なのだ。

 畑にしてもそうだ。使っていない残りの200坪近い畑には、すぐに草がはびこる。(使っている畑も大した変わりはないけれど)すると、いつの間にかトラクターが入って耕してある。畑の周りの土手の草も草刈鎌で、まるで床屋に行ったように綺麗に刈り取られている。

 近所に少々不満があったとしても、みんな黙っている。陰険に、耐え忍んでいるのではなく、許し合っているのだ。1年2ヶ月経った今、私は、思い返してみる。
こんなにも隣人の事に関心を持っていて、あれこれと世話を焼いてくれるのに誰も、あからさまに人の悪口は言わない。もし、それに似たことを言うにしても、好意的に遠慮がちになのである。

 ・・・甘えてはいけない。自分の敷地横の道は、私が草取りをすべきなのだ。それからは、敷地内の草取りよりも、気が付く限り人に取られる前に自分で取るように心がけている。
 

 去年のお盆のことだった。私は、畑作業をしていた。畑横の狭い農道を佐藤のおばあさんがテクテクと通り過ぎようとしていた。
「どこに行ったんですか?」
「うん、病院」
「病院?お盆なのに?」
「うん、私じゃないけんど、見舞いにナ。」
「どうやって行ったの?」
「バスに乗って、電車に乗って、またバスに乗って行って来たわ。」
 話を聞くと、ご主人が心臓の大手術のため今は、検査入院中で、20日に手術だという。
入院先は、百道浜の福岡ドームの前にある国立九州病院だというから、乗り継ぎ乗り継ぎでお年寄りの足だと片道だけでも1時間半はかかる距離である。JRや地下鉄のホームの階段、バス停までの歩きと、バス乗車の際のステップ。この暑さに加わって、見るからに健脚とは言えないその足では、想像するだけでも大変そうである。
 「ねえ、今月は何とか暇を作れそうだから連れて行って上げましょうか?」
「そんな、あんた、気の毒いがね。私は、暇だでナ。ぼちぼち行くわ。ずっと通わなならんで。」
佐藤のおばあさんは、名古屋弁交じりでそう言う。
「じゃあ、明日の朝9時にお迎えに行きますからね。」と、それからの数日間をお付き合いすることに決めた。車で行けば30分の距離なのだ。佐藤さんには、子供はなく夫婦だけの二人暮しである。

 私には、子供時代をずっと母親代わりに育ててくれたおばあちゃんがいた。私が、20歳の頃他界したのだけど、その当時同居してなかったせいもあって、何の孝行も恩返しも出来ずに逝かせてしまった。そのことは、ずっと残念で頭から離れなくて、だから、その罪滅ぼしに、たとえ他人にでもいいから、何か役に立つことをしてあげたらと常々思っていた。お年寄りには、絶対に優しくしなければならなかった。でないと、私の今生の仕事の一つである帳面が消えないのである。
 車で送迎をするなんて事は、大した事ではないし、恩返しにつながるものでもなかろう。しかし、少しでも良いから何か役に立ちたかった。

     

 

 

 

「あんたぁ〜!おっとねえ(居るの?)」
と大きな声で叫びながらやって来る佐藤のおばあさん
 足が悪いので、転ばないように近頃(2003.7月)、手押し車を買いました。

 病院に送って行って3、4時間待っていたこともある。2時間で終わったこともある。行きも帰りも洗濯の荷物がたくさんあった。やっぱり、これだと車でないと大変だと思った。
 手術の当日は、朝7時には送って行き、無事に終わったら連絡してくれるように頼んで、私は、自宅に戻った。「家に帰るんだったら、また迎えに行くからね。」と言い残して。もしかして、一晩は付き添うことになるかもしれないし。しかし、夜の8時になっても9時になっても電話はかかってこなかった。そうだね、親戚中に電話をしているのだったら、私に電話する余裕なんてないだろう。妙に悲しくて、仕事が何にも手に付かなかった。
 10時半になって電話のベルが鳴った。
「今帰ってきたよ。あんたには世話になったなあ。」大きな声だった。
「で、大丈夫だったの?」
「ああ、無事に終わったよ。生きとる生きとる!わっはははは・・・しかし、驚くなあ、あの人の精神力というか・・・持ちこたえたもんなあ。」
「そうか!そうか!・・・どうやって帰ってきたの?」
「もう、タクシーで帰って来た。あんたに迎えに来てもらうのも悪いしなぁ。」
「ちゃんとお迎えに行ったのにー。・・・そうか!そうか!良かったねえ。」

 手術前、佐藤さんは、人に頼んで自宅前の50坪ほどの空き地の草刈をした。布団も干して綺麗にした。後で聞く所によると、ご主人のお葬式の用意をしていたのだという。会葬者のための駐車場の確保と泊り客のための準備である。11時間に及ぶ大手術で、遠い親戚も集められて手術に同意する確認書まで取らされ、余程の覚悟をしていたのだという。

 病院に連れて行った初日の帰り、お昼過ぎだったので途中でうどんをご馳走になった。
お礼にご馳走でもしないと納まらないのかなと、敢えて甘えることにした。
 ところが、夕方近く家にやって来て、お礼だと言い封筒を差し出した。
「何をしてるのよォ。もう、お昼にご馳走になったじゃない!そんなの頂けないよ!」
押し問答でもめた挙句、結局私は、負けてしまった。後で中身を確かめると、1万円も入っていた。
とんでもない金額だった。返しに行ったが受け取ってはもらえなかった。
 2回目の病院行き。その時も、また封筒を渡そうとする。今度は、絶対負けなかった。
そうしたら、今度は、「あんた、ラッキョウや生姜の漬けたの、食べるか?」と訊くので食べると答えた。何と、大きなビン入りのラッキョウと生姜漬けが届けられた。その後、もうお金は受け取らないと分かってくれたのだろう。その代わり、1日おきくらいに、魚だのお菓子だのが届いた。頂きっぱなしでは悪いので、私も他所からの頂き物を何度かお裾分けで持って行った。
 「あんたには、世話になったなあ。あん時は、ほんとに助かったで。」
1年経った今でも、そう言うのである。ここまで誠心誠意心を込めてお礼をする人を、私は知らない。
何て正直な人なんだろうとこちらの方が驚いてしまった。

 歳のせいで足が少々不自由で、しかも車を自在に調達できない人は、乗せてもらえることが、とてつもなくありがたいことに思えるのだろう。運転する人にとっては何でもないことなのにである。
 店を開店してからは、ほとんどお付き合いできる暇はないが、時間があれば、なるべく買い物にも連れていって上げるようにしている。この近所には、買い物できるような店は全くないのである。
 今は、私の作る胡麻豆腐がお気に入りのようなので、飽きるまで食べさせてあげようかと思っている。それはそうと、佐藤さんの作る、おこわやあんこ入りのよもぎ団子は、とても美味しい。

 ここ末永では、50代の人達まではみんな働きに行っている。昼間に家に居るのは、おじいさんとおばあさんだけだ。そして、みんな結構暇を持て余している。病院行きや草取りや庭木の剪定、犬の散歩が終わればもうやることがない。誰か人が居る家があれば、そこを訪れて暇をつぶす。
 裏の清さんもその一人だ。「居っとなぁ?(居るの?)」と家の中に入ってくる。話の内容は、昨日や一昨日とさほど変わらない。2Kmほど離れたコンビニに歩いてパンを買いに行く話、入れ歯の話、最近3本500円で買ったと言うベルトの話、6Km離れた周船寺の町まで行く時、バス停を2つ向こうまで歩けばバス代が、往復で80
円儲かる話等だ。
  しかし、ここは県道とは言え、1時間に1本もないくらいのバス路線で、途中家並みもない所も走るので、バス停2つと言ってもその間は、2Kmも距離があったりするのである。

 
   
 清さんは、私と同年代の娘さん夫婦と孫と同居している。勿論、清さんの奥さんのフジエさんも。しかし、みんな忙しいので、なかなか町まで買い物には付き合ってくれないらしい。
 ある日、私が車で出かけようとすると、
「めがねが欲しか。前原駅の所に、100円でめがねが売ってあるって聞いたばってん、それが欲しか。」と言う。
「じゃあ、一緒に行く?」と私。
「おらぁ、金は持って来てなかばってん(持って来てないけれど)。」
「いいよ、持ってなくても。乗って!」
 100円均一の店のめがねコーナーに連れて行った。
「わあー、ほんなことよう見ゆる。こっちも良かねえ。」
「じゃあ、2つ買ったら?」
「良かと?ははは・・・」
 帰りに、スーパーに寄ったら、売り出しで100円の食パンがあって、パン好きの清さんにそれも買うと、帰りの車の中では子供のように喜んでいた。
「めがねば、2つも買うてもろうた。パンも買うてもろうた。俺は、何も金ば持って行かんかったとに。良かったぁ!おらぁ、あんたん為なら、何ちゃしちゃる(何でもして上げる)!」
そして、近所の人達にも同じ事を話して回っていた。たったの300円で、あんなに喜んでもらえるんだったら何度でも連れて行って上げたい。余程良いことをした気分にさせてくれる人なのである。

(つづく)
 

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