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野の花物語パート1はこちらです
  野の花物語Part2 (2004.8.10)
今日は、2004年8月10日です
ずっと書きたかった""野の花物語"の続編は、日々の業務に追われ、一年以上のご無沙汰になりました。
私のこんなに拙い話を読んでくださるみなさまに心からお礼を申し上げます。

ここ"末永"の住人になって2年3ヶ月です。
もうすっかり地元の住人となったつもりで、糸島のいろんな方々との交流も増え、地域事情もかなり掴めました。
(糸島とは、糸島半島にある、前原市、志摩町、二丈町のことを言います。)
住み始めた頃より、もっと住みやすくなり、ここが私にとっての「楽園」であることに変わりはありません。
とにかくみなさん気さくで、親切で温かです。
日本にも、こんなにもやさしい時間の流れているところがある。
人間のほんとうの深い魂を呼び覚ましてくれるこんな温かな場所がある。
少ない時間を割いてでも書き続けたいのは、黙っていたら、誰も知らないような、こんなちっぽけな土地の温かさを、この土地にお世話になっているお礼に、一人でも多くの人に心を込めて伝えたい・・・そんな思いがあります。
こんな殺伐とした世の中だけど、でもけっしてそうとは限らない。
人間、捨てたものじゃない。
この"野の花物語"を読んでくださる方の住んでいるところが、この末永のようなところではないにしても、人ってほんとうは、みんな温かな心のふるさとを持っているはずです。
格好良さや見栄を捨てて普段着の自分に戻れば、相手も普段着になってくれます。
普段着の人間は、誰もほとんど変わりはありません。
相手のことを、好意を持って信じてあげれば、どの場所に居たとしても"末永"が実現するのだと思います。
「自分の与えるものが、自分に戻ってくる」
「人は、自分の鏡」
そして、人生最大の切り札は、「愛と感謝」です。
私は、ここでそのことを学び始めています。

昔の風習などかなり残っていながら、決して保守的ではないこの開放的な明るさは、どこから来るのだろう?
農業地帯でありながら、ひとつには、私たちの世代の人たちは、ほとんどが勤めに出ているからではないだろうか。
都心部に働きに行っているから、いつも新しい風も吹き抜ける。
お年寄りは、腰が曲がりながらも、まだ農業をされているが、その子供たちの世代は、みんなサラリーマンだ。
(そのことを考えると、少し怖くなる。お年寄りが、農作業ができなくなったとき、ここの田んぼはどうなるのだろうって。
それは、10年も先のことではなく目の前に迫ったことなのだ。
しかし、と子供の世代は言う。「みんな、ちゃんとそのことを考えているさ。」って。)
でも、それだけではないのは確かだ。
頑固で変哲物のお年寄りなんて、ここには存在しないからだ。
「みんな、仲良う、協力し合って・・・」なんて言うのは、決まってお年寄りだ。
もしかすると、ここには昔、人徳を積んだ高貴な方がおられて、そのなごりが絶えていないのかもしれない。

静かにたたずむむ田舎の家並みに、突然他所からの新しい住人がやって来て、それも"料理店"をするのだという。
そんなに繁盛しないまでも、他所からの車や人の出入りが多くなる。
「我が物顔によそ者に、かき乱される。」
そんな懸念は、ここの人たちにはなかったのだろうか?
私が、この地元の人だったらいい気分はしなかっただろうと思う。(私が、意地が悪いのだろうか?)
しかし、地元の人たちは、歓迎してくれた。
「ああ、あなたが来てくれて、ここが明るくなった!」
「何にもなかったところだから、これで少しは賑やかになるね。」と。
「ここでの風習はね・・・」とか「こんなことするといけない・・・気をつけなさい」なんて一度も聞かなかった。
好きなように泳がせて、やさしく見守ってくれていた。
2階の寝室のカーテンが、2日ばかり閉まっていると、「寝込んどりゃせんね?(寝込んでるんじゃない)」と訪ねて来てくれた。
定休日の前日に私が、よく徹夜作業をしていて、昼近くまで寝ていることも良く知られている。
だから、"野の花"を訪問するのは、昼近くになってから・・・と気遣ってくれる。
「もう起きとりますか?」と10時半過ぎに訪ねてくれるのは、朝は、5時から起きている人たちにとって相当の気の遣いようだろう。

裏の家に住む"清さん"は、暇をもてあましているせいもあったのかもしれないが、2ヵ月半のリフォーム中、毎日やって来た。
毎日毎日、用事もなく世間話をしに来るので、最初は若い二人の大工さんも、内装担当の女の子たちも、仕事の手が止められるのを少し困っていたかもしれない。
しかし、そのうち、清さんは、手伝ってくれ始めた。
材木を切るときや、釘を打つ時に抑えておいてくれる、塗料を塗る、材料を運ぶ、木屑を掃除したり燃したり等いろんなことを手伝ってくれるようになった。
木屑を燃すとき、人数分のサツマイモを持ってきて、アルミホイルに包んだ焼き芋を作ってくれた。
毎日私たちは、一日2回一緒にお茶を飲み、おやつを食べた。
他に、清さんは、篠竹(しのだけ)を、私の畑のために取ってきてくれたりもした。
野菜に立てる添え木(支柱)だ。
最初は、100本、更に100本、そのうち500本になった。
「もう年やけん、来年も採ってきてやれるか分からん。今年のうちにまとめて採ってきておいたけん。」
細い竹だとはいえ、50本も山から切り出して2Kmも担いでくるのは、大変な作業だ。
その10倍の量。
しかも、清さんは、もう80歳近いのだから。
途中からは、大工の大ちゃんが、トラックを出して手伝うようになった。
そんなにして、清さんの汗の結晶の貴重な篠竹が、大量にストックされた。
そしてそのうち、「家にも使うたらよかたい。」と清さんは言った。
大工さんたちと考えた。せっかくの清さんの好意を、どういう風に生かそうかと。
そして、出来上がったのが、裏に隣接するウッドデッキの囲いの部分だ。
デッキの屋根部分にしようかという案もあったけれど、そうするとデッキや裏の部屋が暗くなってしまう。

清さんの家の人たちは、私たちに気を遣って、「毎日お邪魔してごめんね。邪魔になるって言ってやってよ。」
でも、今までそんなお年寄りとの交流の機会に恵まれなかった私たちは、素朴でいかにも和みのある清さんとの家族同然のお付き合いが嬉しかった。
何も説教じみたことは言わない。
若者を見下ろすこともしない。
人さまの悪口は言わない。
ただニコニコと、大して面白くもない世間話を一方的に話すのだ。
前に述べたように、清さんの話の内容は、大体決まっている。
それでも、みんな「へーえ」「そうなの?」と、これがまた毎日のように繰り返される。
話の内容が重要なのではなく、清さんの和みの雰囲気が心地よいのである。


清さんについての余談だが、昔(10年位前?)は、ヘビー・スモーカー(6
0本)で大酒飲みだったそうだ。
清さんから、100回は聞いた話である。
いつも酔っ払って、深夜、道路の上でも寝ていたらしい。
ところが、そんな不摂生が祟ってか、大腸ガンで、腹を切る大手術をしたという。
「それ以来、きっぱりとタバコ、酒はやめたけんねえ。」
私は、そんなハチャメチャな清さんを知らない。
清さんの家は、"野の花"の裏にある。
清さんの娘さんは、節子さん、私より一歳年上。娘ばかりの長女なので、養子取りの家である。
この節子さんが、また素晴らしい人物である。
仕事は、福岡市内の救急病院に長年勤務されていて、キャリアウーマンなのだが、そんな偉そうな雰囲気では決してない。
一年中、時間を惜しんで働き尽くめに働いている。
始業時間が、8時半からだし、その病院までは15分もあれば行ける。
なのに、彼女は、7時半には出発する。
時間にギリギリなのは嫌なのだそうだ。
彼女の通勤用の車は、軽トラック。
家族みんなが車を所有しているけれど、自分の車は、軽トラックと決めている。
彼女は、毎日5時に起きる。冬でも余り変わらない。
農家なので、出勤前に山や畑の草刈にも出かける。
(昨年は、電動草刈鎌で、指を切り落としてしまいそうなくらいの大怪我をした。)
帰ってきてから、漬物を漬けたり、庭の草取りをしたり、町内の世話係の用事を済ませたり大忙しだ。
仕事は速いし、さばける。頭がいい、賢い!(けっしてお世辞ではない。)
他の女性と違うのは、社交的なのに、だらだらと世間話に時間を割かないところだ。
(ここがまた偉いと思う。)
別に見張っているわけではないが、たまたま裏庭に居たり、業務用のキッチンに居ると、節子さんが動き回っているのが見える。
勤めが終わって、帰ってきた車の音が聞こえたかと思うと、5分もしないうちに着替えて庭の仕事をしだしたりするのが見える。
花壇も庭もいつも整然としている。
家の中や庭を見ると、その家のしっかり度が見えるような気がする。
そんな節子さんは、おまけに私の庭の横にある、自分の家に続く小道の草取りまでしてくれる。
私の死角に当たる道なので、いつも気を付けていないと、そこに草が伸びているのを忘れてしまう。
あっ、と思うまもなく綺麗になっていて、ブロック沿いに季節の花が植えられていたりする。

まだ花は咲いていないが、節子さんが植えてくれた。奥に見えるのが、清さん、節子さんの家
どこの家庭を見てもそうだが、庭や畑が人に迷惑をかけるほど生い茂ったり、外見が悪く見えるところはない。
それは、永年のご近所付き合いに対するマナーが確実にあるからである。
みんなが楽しく気持ちよく過ごすために、先祖代々大切に守られてきたのだろう。
店の前のメインの庭は、商売上結構こまめに取っているつもりだけれど、なんせ一人なのでなかなか手が回らない。
先日は、数日かけて畑の草取りや大掛かりな庭掃除をやった。
その大掛かりな庭の草取りは、お客様に余り目に付かない(分かる方は、分かってらしたと思うけれど)北側に面した庭で、長々と伸び過ぎた大量の雑草が軽トラック一台分くらいにもなった。 (私が、いかにずぼらな性格かを公表しているようなものだけれど。)
庭は綺麗になったけれど、その草をどう処分するか?
畑に持っていって捨てることもできるけれど、一輪車に積んでも、運ぶうちに道にこぼしてしまいそうだ。
だったら、その場で乾燥させてから焼いてしまうしかないかな?
そう思いながら家の中の仕事をしていると、「ピンポーン」とチャイムの音。
「あの庭の草サァ、うちの山に持っていって捨ててこようか?」と節子さん。
申し出はありがたいけれど、忙しい節子さんに余分な負担をかけるのは申し訳ない。
「よかクサ!今、どうせ汗かきついでやけん。」
半袖のTシャツに、首からタオルをぶら下げて、汗をかいた真っ赤な顔や首をゴシゴシと拭く。

節子さん
この写真は、夜にウォーターレタスを持ってきてくれたとき

節子さんの軽トラックに、草と一輪車と私を乗せてもらって山に向った。
「道が悪いけん、私が一輪車ば押すけん。」
トラックを降りて、一輪車に草を山積みし、荷紐をかけて細い山道を節子さんは、延々と進んだ。
道の反対側は、杉木立の急斜面で、足を踏み外しそうだ。
私は、人に甘えるより甘えられるほうが多いが、そんな節子さんの逞しさに出会うと心地よく、内心、(お姉ちゃーん)と甘えたくなってしまう。
山に着けば、すぐにその場で捨てられると思ったのに、何百メートルも行かなければならなかった。
こんな猛暑の折、汗ダラダラで、自分の仕事だけでも大変なのに人のために労を厭わない節子さん。
私が、心を込めて「ありがとう」と言っても通じない。
節子さんは、至って涼しい顔をしている。人のためなど、日常茶飯事なのだ。
親切の押し売りどころか、親切を施しているのさえ本人は、気が付いていない。


婿養子を取っている家庭は、ここの上組だけでも節子さんの所だけに限らない。
(おおまかに末永は、上組、中組、下組に分かれている。)
その節子さんの、お仲間の他の二組のご夫婦がある。
この方たちが、"野の花"で新年会をして下さった。
はじけるような大きな笑い声、賑やかな会話。
6人なのに、お酒は1升瓶がどんどん減っていく。
パートナーの生家も末永から遠い人ではない。みんな幼馴染かな?
「私たち、今年で28周年なのよ。みんな同じ年に結婚したと。」
「毎年、こうやって新年会をするとよ。」
とにかく仲がいい。みんな最高にご機嫌!
子供の頃から、一緒に学校に行ったり、遊んだり、喧嘩したりしながら、たくさんの時間を共有してきた仲間なのだ。
家族以上の関係かもしれない。
私やスタッフにもグラスが回る。
石井建設の社長、武光さんは、ずっと下ネタで座を賑あわせている。
奥さんたちは、キャーキャー言って、笑い転げては飲み、笑ってはついでいる。
キッチンにいると、話の内容は聞こえないけれど、スタッフと顔を見合わせて分からないままに私たちもつい笑ってしまう。
座敷に行くと、私たちまでが鴨にされる。
何と言われてもいい。とにかくみんな楽しくて仕方がないのだ。勿論私たちまで。

仲がいいのは、その3組のカップルとは限らない。
末永のこの上組は、特別ほんとうにみんな仲がいい。

話が少し横道にそれるが、数年前、上組の少し痴呆気味のおばあさんが行方不明になった時、地域の消防団員などとともにみんなで丸3日間も捜索したことがあるそうだ。
みんなが会社を休み、女性は総出で、動員の人たちに炊き出しをしたという。

話を戻して、そんなカップルの中のひとり、しげ子さん。
今年50歳。誕生日が同じだと分かって、私たちは急速に親しくなった。
最初は、とっつきにくかった。ぶっきらぼうで、話す時もあまり人の顔を見ない。
しかしそれは、彼女がとてもシャイな性格だったからだと気が付いたのは、少し経ってからだった。
一旦親しくなると、まあ、どこまで人がいいんだろう。純粋で、ひたむきで、感激屋さんで・・・少女のような人だ。
彼女は、写真を撮ったり、詩を書くことが大好きで、部屋にはそんな作品が額に入れられてたくさん飾られている。


   人間、生まれてきたのも裸
   飾ることはない
   人間死ぬ時も裸
   飾ることはない
   お金は使うためにある
   お金は生きた使い方をしたい
   お金は喜んでくれる人の為に使いたい
   お金は人生を楽しく生きることに使いたい
   お金はあなたのために使いたい

人にはほとんど見せたことのないという"秘密のノート"を貸してくれた。
いっぱい、いっぱい彼女の思いが詰まっていた。(ここに公表する許可は、もらった。)
彼女も、またたいへんな社交家だ。

    ・コスモス会
    ・楽笑会
    ・江友会
    ・横枕婦人会
    ・ひまわり会
    ・こだま会
    ・はまなす会
    ・おしどり会
みなさんは、これを見て何と思われるだろう?
これは、しげ子さんが所属しているグループ名なのである。
この方々との年間スケジュールが、しっかり出来上がっている。


ある夜、パジャマ姿でバイクに乗っている彼女に会った。
「どこに行くの?」と私。
「電話かけに。そこの酒屋さんまで。」
「何で公衆電話なの?」
「孫ちゃんが、やっと眠ったけん、電話の声で起したくないと。」
と彼女は笑う。
私だったら、そんな面倒くさいことできないなあ。

しげ子さんの夫は、孝さん。
孝さんは、いつもニコニコとして口数が少ない。
彼女は、その夫君に28年間、惚れっぱなしなのだ。
彼女の家に行ったとき、孝さんがお茶を運んでくれた。

全く関係のない他人でも、仲のいい和やかさを見れるのは嬉しいものだ。
こちらまで幸せな気分にしてくれる。

田舎の風習に馴染みのない私は、最初、この地域である葬儀にまず驚かされた。
ここでは(といっても、田舎では当たり前なのだが)、自宅で葬儀が行われることが多い。
市街地と違って、庭も家屋も十分の広さなのだ。
それに、住み慣れた自宅から、みなで送り出してあげたいという思いもあるのだろう。
通夜も葬儀も、そこの組の人が総出でお世話をする。
特別な事情がない限り、その手伝いのために、農作業も勤めも休む。

人が亡くなると、組長さんは飛脚のごとく、各家庭を回って訃報を伝える。
その夜には、集会所で緊急打ち合わせが開かれる。
通夜の受付係、葬儀のときの受付、交通整理は、主に男性の仕事。
女性は、組の者全員で当日の御斎(おとき)の準備をする。
打ち合わせでは、そんな担当や、調理の開始時間、買い出しのことなどが決められる。
御斎(おとき)は、全くの精進料理で、通夜の際は、それに使用する野菜代の300~500円と、白米1升を持参する。
つい最近までは、野菜代ではなく、本物の野菜を持参していた。
これが見直されたのは、同じ野菜がダブルことや、足りなかったりしたためだ。

葬儀の当日は、全員が、エプロン姿に、包丁、まな板持参で、遅くとも8時からは準備が始まる。
献立はいつも決まっている。
五目寿司、煮しめ、なます、サツマイモやごぼうの天ぷら、椎茸と豆腐の味噌汁。
余分に、手伝い人のための賄い食として、がめ煮(筑前煮)も作られる。
ご飯は、上組所有の大釜で炊く。いいえ、釜だけではなく、お椀、湯のみ、鍋まで準備されている。

炊き出しは、集会所が近い家は、集会所内で、遠ければそこの庭先に板台を持ってきたりしながら行われる。
(板台とは、昔夕涼みのときに使われた、畳一畳分ほどの広さのある板の台である。)
上組だけで20数所帯だから、それだけの数の女性が働く。
葬儀の行われる場所だというのに、暗いイメージはない。
とにかく仲がいい。変に仕切って先輩面する人もいない。みんな笑顔だ。
人々は、堅いチームワークで、暗黙のうちにそれぞれの分担をこなす。
お互いの作業を横目で見ながら、足りないところには誰かの手が、サッと伸びていく。
瞬く間に100人分くらいの料理が出来上がる。
この葬儀の後、仏さまになった個人のために、引き続き"3日法事"が行われる。
料理は、その夜の分も余計に作って用意をしておいてあげる。
その日は、家人に少しでも負担をかけないためだ。
親戚の方たちに食事を出し、出棺の後で、まずは手伝いの男性に食べさせ、それから私たちまでご馳走になる。
片付け作業も、素早い流れ作業だ。
みんな仲がいいからできることだ。
昨年参加した最初の葬儀のとき、料理の準備が出来上がったので、自分の店のことで忙しかった私は、1時間ほどその場を離れた。
現場に戻ると、手伝いの女性の食事も終わっていて、既に片付けに入っていた。
「ああー、戻ってきた?お腹空いたろう?早う座って食べんしゃい!」みんなが口々に言ってくれる。
私も片付けを手伝おうとすると、「よかよか、先に食べんしゃい!」と無理に座らせられる。
「ここ!ここおいで!」と他の人。
ご飯をついでくれる人、味噌汁を注ぐ人、お煮しめ、お茶と、それぞれの人が、一品ずつ次々に用意してくれる。
(何人の人が動いてくれたのだろう?)
「いえ、自分でやりますから・・・」
「よかとよ、座っときんしゃい!(いいのよ、座っていなさい)」
「気にせんでよかけん、ゆっくり食べんしゃい!」
ここには、意地悪や妬みなどは存在しない。
上組の集会所の他、末永全体の公民館もある。
数ヶ月に一度、組ごとに回ってくる清掃当番の日がある。
たいてい8時から始まる。
なのに定刻に行っても、みんなもう大掃除の真っ最中だ。(7時半過ぎには来ているのかもしれない。)
黙々とみんな良く働く。掃除は、隅々までとても丁寧だ。
どこでもピカピカになる。中の掃除が終わると、今度は外の草取り。
7月には、梅雨明けだったので、畳干しまであった。この時は、男性が大活躍だ。
こんな掃除の時でさえ、みなのチームワークの良さが感じられる。
適度のおしゃべりはするけれど、けっして身体や手が休まることはない。
「初子ちゃーん!、そっち終わったぁ?よーし!そしたら、私たちは、こっちばするけんねー。」
京子さん、さちこさん、しげ子ちゃん・・・と、名前で呼び合う温かさは、何とも心地がよい。
掃除が終わりに近づくと、誰かが戸を閉め、カーテンを引き、雑巾を洗う人が居て、それを干す人がいる。
流れに無駄がないのである。

春の年度末始には、末永全体の総民会が開かれる。
70~75%くらいの出席率で、委任状がこれまた完璧に近い。
出席者は、議長の話、会場からの質問が出る人の話に耳をそばだてている。
「自分たちの地域の大切な話し合いなのだ。」という、そんな適度な緊張感がある。
しかし、これが何とも和やかなのだ。
「協調」とは、こんなものを言うのだろう。
葬儀、運動会、敬老会、草刈、ごみ拾い・・・すべてにおいて一貫している。
今年の春の議題で、「漆喰(しっくい)おろしについて」というのがあった。
「???」
何のことか分からないので、隣の人に訊ねたいけれど、一生懸命聴き入っているので話しかけられない。
しばらく聴いていて、それは、敷地の庭や所有地に生える樹木の「迷惑枝の切りおろし」のことだと理解できた。
所有者が気が付かないで、通行人や隣家、他人の所有地に迷惑になっている樹木の枝を、所有者の理解と合意の上で円満に切りおとそう、というものだ。
「係りの者たちで現場を見て回りますが、もし、漆喰おろしの係りの方から指摘を受けても、どうぞご協力ください。
しかし、所有者に無断で切るような失礼は止めましょう。」
そんな内容の話し合いだ。
"野の花"のオープンに当たっては、一生大切にしたい思い出ばかりなのだが、まだこのHPのどこにも出てきてない話がある。
オープンのときに、"野の花"のお向いの家の和代さんが、お赤飯を1升ほど、大鉢に入れて持ってきてくれたのだ。
「今日が、オープンよね。おめでとう!お赤飯、炊いてきたよ。一人でよく頑張ったね。
あなた、近くに親戚も居らんやろ。今日は、私が、あなたの親戚代わり!」
朝の10時ごろだったと思う。
そのときのことを思い出すと、今でも泣いてしまう。
そのお赤飯を炊いてくれるまでの和代さんの過程を考える。
きっと、お祝いをしようと思ってくれたのは、何週間も前だっただろう。
それから、何をしようかと考えてくれたに違いない。
小豆やもち米の用意をして、大量にお米を洗って、仕込んだ前日。
10時に仕上がるには、7時には用意を始めただろうな。
料理店にあげるからには、絶対失敗できないと、相当な気を遣ってくれただろう。
私のために、使ってくれた数日間の時間は、あまりにも貴重で何ものにも変えがたい。
その時、私は、この人のためなら何でもしようと思った。
和代さん、有弘さんがお年寄りになったら、私は、出来る限りの役に立とうと思った。
もちろん、お年寄りになる前でも、出番が来たらきっと、そうするだろう。
そういえば最初からトイレでお世話になった。
「私たちが居なくても、鍵を貸しとくからいつでも使ってね。」と言ってくれた。

今年の新年の一周年のときに、和紙に書かれたとても達筆なメッセージをいただいた。

  早いものでもう一周年なんですね。
  開店前の大変な日々、開店後の奮闘振りが浮かんできます。
  本当によく頑張りましたね。すごい!の一言です。

まるで、学校の通知表の評価のようだ。
お気に入りの先生にほめてもらって、ご機嫌な私は、何度も何度も読み返した。
「TV人生の楽園」の一周年記念パーティーの撮影の最中にいただいた、お祝いのメッセージも和代さんの作品だった。

末永に住み始めて以来、子供のように毎日が新鮮で嬉しい。
それでいて胸に迫る勉強をさせていただいている。
辛かった土地探しから始まった私の"野の花物語"は、見えない力によってこの地に引き寄せられた。
  青くかすむ遠い山々、
  広がる田畑、
  野の花に彩られる広大な風景、
  せみ時雨、
  風に乗って漂う赤とんぼたち、
  カナカナカナ・・・の蜩(ひぐらし)の声
  散りばめられて輝く無数の星たち、
  皓々と裾野を照らす月明かり・・・
  裏山から昇り、玄関先に沈む夕日
  季節の移り変わりとともに、
  毎日、この風景を味わうことのできるしあわせ
  こんな風景を、どんなに永いこと探し求めていただろう

  そんな自然とともに、昔からの日本人の心が
  豊かにゆったりと流れている
  私は、そんな末永の地を心から誇りに思う。

  そんな私にできることは、もらった幸せの数々を、
  差別なく今度は他の人に分けてあげることだ。  
"野の花"に食事にお見えになるお客様も、こんな地域の方たちに支えられての店なのだと感じていただけたら嬉しいです。
私は、一人では何にもできないけれど、かげでこんなにたくさんのみなさんの力をいただいています。
そして勿論、拙い私の料理を食べに来てくださるみなさまにも心を込めて「ありがとうございます」
みなさまのおかげで、"野の花"を存続させることができています。
たぶん、"野の花物語"は、これで終わりにはならないと思います。
まだまだ、書きおおせないエピソードがたくさん残っていますし、
これからも、感動のドラマは次々に生まれそうです。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。
”野の花”のリフォームをやってくれた大工の茂ちゃんと大ちゃんも、もうすっかり、末永の住人です。
彼らも、末永が気に入っていることは、言うまでもありません。

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